第66話 蓋をした思い、久しぶりの帰郷
一週間経った日曜日。
尚也さんは約束通り、私を車で迎えに来た。
車窓に流れる風景が、だんだんと懐かしい色に変わっていく。
青い空、田畑の緑、遠くに見える立山の稜線。
私が生まれ育った場所――富山、安曇野。
春先の風はまだ少し冷たくて、指先に心地よい。
胸の奥がきゅっと締めつけられるような、でもどこか安心する感覚。
「……懐かしいな」
ぽつりと呟くと、運転席の尚也さんが横目でこちらを見た。
「少し眠っていたな。顔色はどうだ?」
「うん、もう大丈夫です。……ありがとう」
「焦らなくていい。今日は、ゆっくり過ごそう」
その穏やかな声が、道の静けさに溶けていく。
車は、私の実家の近く――海の見える小さな町へと向かっていた。
両親が亡くなってから、一度も帰ってこなかった。
帰る勇気が、なかったのだ。
◆◆◆
昼を少し過ぎた頃、町に着いた。
駅前は少し寂れていて、昔の面影はところどころにしか残っていない。
けれど、潮の香りだけは昔と変わらない。
「ここが……」
「はい、私が育った町です。商店街の向こうに、小さな家があって……海までは歩いて五分なんです」
言葉を重ねながら、胸の奥がじんわりと熱くなった。
忘れていた景色たちが、心の中で音を立てて蘇っていく。
海岸線に出ると、潮風が髪を揺らした。
穏やかな波が寄せては返す。
その音が、まるで「おかえり」と言ってくれているようだった。
「……昔、よくここで父と貝殻を拾ったんです。母は少し離れたところで、お弁当を広げて……」
声が震えた。
思い出が胸の奥を優しく彩る。
尚也さんは何も言わず、ただ私の隣に立っていた。
肩が触れるくらいの距離。
その沈黙が、いちばん優しい言葉のように感じた。
◆◆◆
夕方。
町の外れにある墓地に立った。
海を臨む高台――両親が眠る場所。
墓石には、少し潮風で薄れた文字が刻まれている。
その前に膝をつき、そっと手を合わせた。
胸の奥から、溢れるように言葉が出てきた。
「……お父さん、お母さん。帰ってくるのが遅くなって、ごめんなさい。もう少し、強くなりたくて……でも、やっとここに来られました」
涙が頬を伝って落ちる。
止めようとは思わなかった。
全部流してしまいたかった。
背後から、尚也さんの気配がした。
振り返ると、彼は静かに立っていた。
何も言わず、ただ私の隣にしゃがみ込み、彼も一緒に手を合わせてくれた。
風が二人の頬を撫でていく。
沈みゆく陽が、海と空を茜色に染めていく。
その光の中で、私は確かに感じた。
――ああ、私はもう独りじゃないんだ、と。
長い間ずっと蓋をしてきた両親への思い。
泣きながら、私は向き合っていくことができた。
もちろん、すべてが解決するとは思っていない。
けれど、この状態のままで尚也さんに身を預けていいと思えた。
この地へ共に来てくれた彼の覚悟を、しっかり感じ取ることができた。
◆◆◆
帰りの車で、窓の外を見ながら小さく呟いた。
「……ありがとう、尚也さん。連れてきてくれて」
彼はハンドルを握ったまま、優しく答えた。
「礼なんていらない。俺は、君の故郷を見たかったんだ。未春を育てた場所を、感じておきたかった。」
その言葉に、胸が温かくなった。
心の奥の小さな氷が、静かに溶けていくような感覚。
外の風景は、もうすっかり夜の色に変わっていた。
けれど、不思議と心は明るかった。
長らく蓋をし、背けていた事実。
向き合うこと自体が、怖かった。
そんな自分と、過去を少しだけ赦せたような気がした。




