第64話 空回る気持ち、確かめ合う心
朝の光が、眩しすぎる。
体が重いし、頭も痛い。
それは久しく感じていなかった感覚。
それでも私は、鏡の前に立って笑顔を作った。
“秘書の有動未春”でいなきゃ――満たされぬ思いと、これまでの疲れが蓄積していたのかもしれない。
会社に着くと、いつものように「おはようございます」と声を出した。
けれど、声が少し掠れていた。
「師匠、何だか顔色が……」
莉子ちゃんが心配そうに私に近づく。
「そうね、ちょっと体が重いの……」
そう言って朝のルーティーンを行い、自分の席へ向かった。
デスクに座っても、文字が頭に入らない。
パソコンのカーソルが点滅を繰り返す。
(集中しなきゃ。……集中しなきゃ)
頭では分かっているのに、心がついてこない。
次の瞬間、視界の端で何かが歪んだ。
立ち上がろうとして、ふらりと体が傾く。
「師匠!? 大丈夫ですか!」
莉子ちゃんの声が遠くで聞こえる。
世界がゆっくりと回転していく。
……意識が闇に沈んだ。
◇ ◇ ◇
目を覚ます。
真っ青な晴天が目に入る。
そして白い柱。
(この光景。天界かしら)
上半身を起こすと、雲のベッドの上だった。
『未春、意識を取り戻したのね』
アフロディーテ様の心配げな顔が目に入る。
「あ、アフロディーテさま……」
『よく頑張ったわね、未春。疲れが溜まっていたのです』
アフロディーテ様の柔らかな微笑み。
「……私」
『気にしなくていいのよ』
心が浄化され、癒されていく。
「疲れが無くなった……。ありがとうございます」
私が頭を下げると、アフロディーテ様はにっこり笑った。
少し時が経ち、落ち着きを取り戻した。
『少し話をしましょうか』
「はい。気分もよくなりました」
私は胸の奥にある小さな思いを解き放つように話した。
「私、このまま幸せになって良いのでしょうか」
『ええ。貴方にはその権利があります。今までも、これからもね』
その美しい笑顔は、私の心を深く癒した。
「ありがとうございます」
『あなたの中の闇、それは彼が癒してくれるでしょう。大丈夫です」
……見透かされている。
やはり神様ってすごいんだ。
「はい。信じます、アフロディーテさま」
『あなたはよく頑張ってきました。そして驕ることなく、周りにも接してきました。不安もあるでしょう。ですが、今の幸せを受け取る権利は、すでにあるのですよ』
「はい」
『さあ、もう戻りなさい。必要になったら、また来るといいわ』
そう言ってアフロディーテ様は私に優しい光を振りまいた。
私はアフロディーテ様の腕の中で、静かに瞼を閉じた。
◇ ◇ ◇
目を覚ますと、真っ白な天井。
まだ全体がぼんやりとしている。
点滴のチューブが腕に刺さっていた。
「ここは……?」
「病院だ。……気がついたか」
声のする方を見ると、桐生さん――尚也さんがいた。
スーツの上着を脱いで、椅子の上に身を預けている。
目の下には薄いクマ。
きっと、ずっと付き添ってくれていたのだ。
「すみません……また、迷惑を……」
「迷惑なんかじゃない」
短く、でも力強い声だった。
「未春が倒れたって聞いて……正直、怖かった。病院に駆けつけた時、君の顔が真っ白で…… 俺は、自分が何もしてやれなかったことを、心底悔やんだ」
尚也さんが俯き、拳を握る。
その姿を見て、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「そんな……私こそ、ごめんなさい。ちゃんと休まなきゃいけなかったのに……仕事、投げ出せなくて……」
「未春はいつもそうだな。誰かのために無理をして、自分を後回しにする」
「……だって、私が頑張らないと。皆に迷惑がかかるし……桐生さんにも、心配を……」
「心配してるよ。今も、ずっと」
その言葉に、心の中で何かが弾けた。
目の奥が熱くなる。
止めようとしても、涙が零れ落ちていく。
「……私ね、怖いの。また“重荷”になるんじゃないかって。そして捨てられるんじゃないかって。私はいつも、誰かに迷惑ばかりかけてる気がして」
「……違う!」
尚也さんの手が、私の手を包んだ。
温かく、力強い。
その温度が、震える心を静かに包み込む。
「未春は、誰の重荷でもない。むしろ、俺はお前に支えられてる。……俺の人生に、お前がいてくれてよかったと思ってる」
その言葉が、胸の奥に深く沈み込んだ。
「俺が悪いんだ。もっと傍にいてやればよかった」
「桐生さん……」
「守ると約束しながら、仕事を理由に何もしてやれてなかった。本当にすまない」
「……」
「それにたとえ離れていても、できる事はある。俺はそれができていなかった」
「そんな……」
「君に寄り添い、寂しい思いはさせないと改めて誓う」
「……信じて、いいんですか? 私、あなたに甘えても……いいんですか?」
「ああ」
まっすぐな瞳。
それを見た瞬間、胸の奥からやるせなさがどばっと沸いた。
声にならない嗚咽が漏れる。
私はただ、泣いた。
泣くことしか、できなかった……。
◆◆◆
その日の夜。
病室の窓から街の灯りが見える。
尚也さんは椅子でうとうとしていた。
その横顔を見つめながら、心の中で小さく呟いた。
(……ごめんなさい。そして、ありがとう)
私はまた立ち上がらなきゃいけない。
支えてもらうだけじゃなく、ちゃんと彼の隣に立てるように。
窓の外、星が瞬いていた。
静かな夜の光が、私たちを優しく包み込んでいた。




