第8話 有動未春を手放した俺の破滅
俺、実小路浩康は激しく動揺していた。
あの日――婚約者の有動未春をレストランに呼び出し、婚約破棄を言い渡して追い出した。
その後、倫道伽耶と豪華なディナーを楽しみ、計画どおり不振の元凶を取り除いたつもりだった。
これで状況は好転すると信じて疑わなかった。
――だが、翌日から世界が一変した。
出社すると、揉み消したはずの業務上の失策が何件も一気に暴露された。
最初は未春の仕業かと疑ったが、あいつは俺の仕事に興味すらない。
それにあの後、あいつが俺たちの前に現れることもなかった。
裏でどうこうするような奴かどうかは、俺が一番よく知っている。
その日、上司からこってり絞られ、緊急役員会で社長以下に糾弾された。
それだけで済むはずもなく、マスコミへのリークでニュースにされ、会社の株価が暴落した。
社内は大混乱。
俺は気が気でなかった。
火消しと釈明に追われるうち、伽耶をかまう余裕は一切消えた。
それでもあいつは俺を信じ、付いてきてくれていた。
――それが余計に重荷に感じた。
過去のミスが次々に掘り返され、部署では同僚や上司が必死に処理し、俺は毎日吊るし上げられた。
何でだ?
なぜ一度にこんな目に?
答えは出ないまま、ただ追い詰められていく。
さらに健康診断で悪性腫瘍が見つかり、手術が決まった。
「早期発見だから良かった」と医者は言ったが、今そんな情報はいらない。
その頃、付き合っていた女たちが次々と別れを告げてきた。
ニュースを見たらしい。
面倒になって全員切り捨てたが、心はどんどん擦り減った。
そして、一番隠したかった事案が露呈……。
役員会で議題に上がり、始末書と多額の賠償、そして降格処分が決定した。
会社は世間への公表を避けたが、俺の未来は潰された。
……くそっ。
――俺が一体何をしたっていうんだ!?
酒とタバコで体をごまかし、正気を繋ぎ止める日々が続いた。
――それでも伽耶だけは俺を信じてくれていた。
だが、もう俺にはまともな判断力なんて残ってなかった。
俺はすべてを、計画に誘った伽耶のせいだと思い込むようになった。
そして――先日、伽耶と一夜共に過ごしたのち、一方的に別れを告げた。
あいつは涙目で少し食い下がったが、俺が無理に押し切った。
その後、何も言わず荷物をまとめて出ていった。
……だが、これで状況はきっと好転する。
いや、そうに違いない。
――俺はまだ終わっちゃいない……終われないんだよ!
◇ ◇ ◇
その日、俺は同僚と二人で取引先へ向かうため社を出た。
ビジネス街の昼下がり、ざわめく通りを歩きながら、頭の中は次の言い訳と火消しの段取りでいっぱいだった。
「浩康、今日は気をつけてくれよ。もう俺たちも尻ぬぐいは嫌だぞ……」
隣の同僚が軽口を叩く。
「すまん、わかってるさ」
俺は軽く頭を下げて返し、ネクタイを直した。
――この先を曲がれば、目的のビルが見える。
そう思った瞬間、背筋がぞわりとした。
黒い影が視界の端から飛び込んできた。
人影がひとつ。
全身黒ずくめ、目元まで覆面をしている。
通り魔か!?
直感的にそう感じた。
「っ!?」
叫ぶ間もなく刃の閃き。
同僚が先に反応した。
だがしかし……
「うわっ!」
通り魔の刃が同僚の腕に一文字の傷を残していた。
彼は悲鳴を上げ、腕を押さえて倒れ込む。
白いシャツに赤が広がった。
「なっ……!」
状況を理解する暇もなく、影が俺に向かって突っ込んでくる。
反射的に後ろへ飛び退いた。
鋭い痛みが左腕を走り、袖口に血が滲む。
軌道がそれた――護身術を身に着けていなかったらヤバかった。
――死までまさに紙一重だった。
「クソッ!」
それでも俺はとっさに手を伸ばす。
影とすれ違いざま、覆面を掴んで力任せに剥ぎ取った。
黒布が宙を舞う。
露わになった顔を見て、息が止まった。
――伽耶……だと!
「……っ、お前……」
血の気が引く。
視線がぶつかる。
伽耶の瞳は氷のように冷たく、そこにあったのは愛情でも哀しみでもなく――殺意だった。
「浩康……死んでもらう」
低く、抑えた声が耳に突き刺さる。
「!」
その言葉に心臓が一拍遅れて跳ねた。
背筋を凍らせながら、俺は初めて、死の恐怖と隣り合わせにいた。
「逃げろッ!」
俺は血を流す同僚に叫び、鞄を投げ捨てて走り出した。
背後から迫る足音。
振り返ると、黒ずくめの伽耶が、獲物を仕留める獣のような目で俺だけを追ってくる。
「ひっ……!」
胸が潰れそうなほど脈打つ。
会社の名前が入ったビル群の間を必死に駆け抜けるが、距離は縮まるばかりだ。
「止まれッ!」
怒号とともに警官二人が駆け寄ってきた。
これでもう大丈夫――安心だと、少し気が緩んだ。
だが直後、信じられない光景が目の前で起きた。
次の瞬間、伽耶は一歩踏み込み、最前の警官を掴んで軽々と背負い投げにして叩きつけた。
鈍い音が響き、警官は意識を失う。
「動くなッ!」
残った一人が銃を構え、発砲。
乾いた音と共に弾丸が伽耶の腕をかすめ、鮮血が飛んだ。
しかし彼女は怯まない。
――踏み込み、
「はああッ!」
鋭い気合いと共に宙を舞った。
空を切り裂くような月面宙返り――その回転蹴りのつま先が、警官の顎を正確に打ち抜く。
警官の頭は弾け飛び、体格のいい体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
俺は腰を抜かし、路地に尻餅をついたままその光景を呆然と見ていた。
――伽耶が……俺を殺しに来ている。
“恐怖”が、理屈を塗り潰す。
その時ちょうど、別の警官が数名駆けつける。
その一人が銃を掲げ、空砲を撃った。
乾いた炸裂音が街に響く。
彼女の動きが止まった。
刹那、全身から漂っていた殺気がふっと消えるように見えた。
取り押さえた警官が彼女の両手に手錠を掛け、パトカーの後部座席に押し込んだ。
パトカーの中の伽耶は無言のまま、暗い瞳で俺を見据えていた……。
俺は立ち上がることもできず、警官に肩を支えられ、その場を離れた。
世界はまだ明るい昼下がりのままなのに、景色が色を失って見えた。
――殺意を向けられるとは、こういうことか。
震える指先を見つめ、俺は初めて心の底から恐怖を覚えた。
――その日、俺の精神は完全に折れてしまった。
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