第63話 夢の続き、影を落とす記憶
その日の深夜だった。
どこか懐かしい香りがする。
柔らかな春の風。
陽だまりの下で、母が笑っている。
その隣には、優しく手を振る父の姿。
(あ……お父さん、お母さん……)
声を出そうとしても、喉が震えるだけで音にならない。
二人の姿がゆらゆらと光に溶けていく。
その向こうに、――伽耶と浩康の背中が見えた。
二人は一瞬こちらを振り返り、そのまま歩み去っていく。
「……行かないで」
手を伸ばした瞬間、光が弾けた。
目を開けると、天井が見えた。
――夢だった。
冷たい汗が首筋を伝っていた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、時計の針は六時を指している。
けれど、胸の奥がざわついて止まらなかった。
◆◆◆
その日も、オフィスの空気は慌ただしかった。
資料の山、電話の音、上司たちの声。
いつもならその喧騒にすぐ慣れるのに、今日は息苦しかった。
「師匠、大丈夫ですか?」
莉子ちゃんが私のことを察してくれたみたいだ。
「えっ、あ……ごめんなさい。少し疲れてるみたい」
「少し休んでくださいね」
莉子ちゃんが心配そうに見つめる。
「いつもありがとうね、莉子ちゃん」
私は笑顔を作りながら、パソコンの画面に視線を戻した。
けれど、一瞬指が止まってしまう。
私は普段なら忘れて気にも留めないことを、思い出していた。
(……伽耶。あなたは今、どこにいるんだろう)
あの時、彼女に何もできなかった。
失って初めて気づいた――本当に、私の中で特別な人だったこと。
そして、浩康。
彼に裏切られた痛みはもう癒えたと思っていた。
けれど、夢のせいか、また胸の奥で疼き始めていた。
(……何で今さら、辛い過去を思い出さなきゃいけないの?)
彼にはもう未練は全くない。
なぜ脳裏によぎったのか……。
そうだ、何となく思い出す。
あの頃、会えそうでなかなか会えなくて……。
けれど、会えた時は優しくしてもらえた。
彼がどうとかじゃなくって……それが今の状況と重なるんだ。
それに気がついて、ストンと腑に落ちた。
その感情は桐生さんが傍にいない時、不意に再び忍び寄ってきたのだった。
◆◆◆
その日の夜。
帰りの電車の窓に映る自分の顔が、どこか他人のように見えた。
化粧は少し落ち、目の下に薄い影。
それでも、笑っている“ふり”をしている。
ポケットの中のスマホが震える。
出張中の桐生さんからのメッセージ。
《会議は終わった。もうすぐ帰れると思う。無理せず休め》
……優しい。
それなのに、心が晴れない。
彼の言葉を信じたいのに、どこかで“失う恐れ”を感じてしまう。
電車の窓の外に、通り過ぎる街の灯りが流れていく。
まるで過去の記憶が一つずつ遠ざかっていくみたいに。
帰宅して、明かりをつける。
部屋の中は静かだった。
スーツを脱いで、ソファーに座る。
ふと、昔のフォトフレームが目に入った。
母と父と、まだ中学生だった私。
あの頃の笑顔がそこにある。
写真の前で小さく呟く。
「……ねえ、お母さん。私、ちゃんとできてるのかな」
答えは、もちろん返ってこない。
けれど、不思議と心が軽くなった。
あの夢は、ただの記憶の再生じゃない。
きっと、まだ“伝えたいこと”が残っている。
そんな気がした。
(ちゃんと向き合わなきゃ。過去にも、自分にも)
胸の奥で、静かに小さな決意が芽生えたのだった。




