第61話 幸せの時、静かな約束
尚也さんと婚約してから、一ヶ月が経った。
アメリカでの大成功で、私たちは予定より早く日本に帰国した。
けれど「恋人」から「婚約者」になった実感は、まだうまく掴めない。
尚也さんと話し合い、同棲はせず今まで通りの距離感で結婚までは行くことにした。
仕事上のパートナーとしては、これが一番しっくりするとお互い感じたから。
ただ、挙式の場所の話や、桐生家への挨拶など、結婚への実感は少し感じることもある。
◇ ◇ ◇
朝の出勤電車の中で、窓に映る自分の顔を見て、頭の中で思わず呟く。
(これが“幸せ”なんだよね?)
胸の奥に温かいものが灯る一方で、どこか不安も混じる。
窓ガラスにうっすら映った自分の輪郭をじっと見つめていると、胸の奥で、かすかに淡い金色の光がきらっと瞬いた気がした。
理由なんてないのに、今日一日が“うまく転がっていきそうな予感”で、そっと心が満たされていく。
けれど、本当にこんな幸せな日々に慣れていいのだろうか。
桐生さんは、相変わらず忙しい毎日を送っている。
ルミナリエ化粧品株式会社副社長として、今やグループ全体の会議に引っ張りだこ。
それでも時間を作って、朝のエントランスで必ず声をかけてくれる。
「おはよう、有動」
「お、おはようございます!」
その一言だけで、一日頑張れちゃうんだから。
私ってば、ほんとに単純だと思う。
ただ、今はまだ恋人の関係すら、職場では公に話していない。
それを知るのは尚也さんの家族と一部の関係者、あとは弟子の莉子ちゃんだけ。
彼女にだけは内緒にするよう断って、正直に話したの。
「師匠、すごいです! やっぱり尊敬します!」
なんて言われて、余計にくっつかれてしまったけれど……。
――上司と部下、副社長と秘書。
……だけど婚約者――
その線を引いたまま、共に慌ただしい日々を過ごしている。
◇ ◇ ◇
週末、尚也さんに誘われて、久しぶりに外で食事をした。
お店は彼の馴染みらしい小さなフレンチ。
カウンター越しにオーナーシェフが笑顔で挨拶してくれる。
「いつものコースでいいか?」
「えっ……わ、私も一緒に?」
「当たり前だ」
当たり前だなんて、そんな自然に言わないでほしい。
それだけで胸がドキンと跳ねちゃう。
料理の合間、桐生さんはふとグラスを見つめながら言った。
「未春……少し、落ち着いたら安曇野へ行こう」
「え?」
不意に出てきた馴染みある地名に、息を飲む。
「君のご両親に、きちんと挨拶したいんだ」
優しいけれど、いつになく真剣な声。
静かに響くその言葉に、胸の奥が熱くなる。
「……ありがとう、ございます」
心に渦巻く動揺を抑えるのに必死で、そう返すのがやっとだった。
◆◆◆
その夜、帰宅して部屋の灯りをつけた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
尚也さんと出会って、こんなにも世界が変わった。
あのどん底だった日々を、ようやく超えられた気がした。
ベランダの窓を開ける。
夜風が優しく頬を撫で、遠くで電車の音が小さく響く。
――安曇野。
その名前を口にするたび、懐かしい風景が浮かぶ。
白い山脈、澄んだ水の流れ、母の笑顔。
そして、あの言葉。
『人はね、誰かに優しくするたび、自分の中の花が咲くのよ』
その記憶を反芻した瞬間、頭の奥の青いまつぼっくりが、ぽうっと柔らかく光った気がした。
悲しみや後悔でぐちゃぐちゃだった“過去のフォルダ”が、そっと並べ替えられていく。
痛みのラベルがはがれ、「ありがとう」という名前の引き出しに、静かにしまい直されていく感覚。
お母さん、私、やっと“咲ける”かもしれない。
小さく呟き、ベランダから夜空を見上げた。
星々が、まるで祝福するように瞬いている。
その光の下で、私はそっと指先を重ねた。
夫となるであろう尚也さんと交わした、まだ小さな約束――。
それが、これからの道を照らす灯になると信じながら。




