第7話 最低の彼との出会い、そしてまさかの事実
研修期間が終わった翌日の朝、私は少しだけ背筋を伸ばして鏡をのぞいた。
初日には似合わないと感じたジャケットも、今ではしっくりくる。
自分でも笑ってしまうくらい、肩の力が抜けてきた。
秘書として必要な業務や立ち振る舞い、心構えなど……。
“女神の贈り物”の効果もあってか、昔のように何事も必死で覚えた日々が嘘のように吸収できた。
研修担当の先輩たちに「すぐに現場で通用するね」と笑われた時は、さすがに少し照れてしまった。
今では、ランチの席に自然と誘い合える同僚もできた。
資料室で困っていると、大原さんやほかの先輩からも声をかけてもらえるようになった。
この会社の空気が少しずつ肌になじんでいく感覚に、ほっと胸をなで下ろす。
――ようやく、立派なまではいかずとも、“ひとりの秘書”として認めてもらえるかもしれない。
そんな期待を胸に、私は今日もエントランスの自動ドアをくぐった。
大理石の床に響くヒールの音が、少しだけ誇らしい。
朝一で会議があるとの事で、少し早めに出社した。
準備のためのおつかいを言い渡され、私は大量の資料を抱えて移動する。
エレベーターの扉が開いた瞬間、私は慌てて飛び出した。
朝のミーティングに遅れそうで、資料を抱えたまま小走りになったその時だった。
――目の前に男性が現れ、ぶつかりそうになる。
「……あっ!」
「おい! 危ないだろ!」
低く鋭い声に、足が止まる。
目の前には、長身の男性が眉間にしわを寄せてこちらを睨みつけていた。
初めてその男性と目が合う。
鋭い目つきに、肩口まで無造作に流した髪。
高級そうなスーツなのに着こなしはラフで、どこか近寄りがたい雰囲気をまとっている。
「す、すみません。急いでいたもので……」
私はとっさに謝った。
だが、彼の怒りは収まらない。
「……社内で走るとか正気か? ガキじゃないんだから。ぶつかって資料ぶちまけでもしたら誰が拾うんだ?」
ぶっきらぼうな言葉が矢のように飛んでくる。
私はカチンときて、つい言ってしまった。
「な、何よ! 謝ったじゃないの。そこまで言わなくてもいいじゃない!」
ふくれっ面の私を見て、彼はさらに追い打ちをかけてきた。
「謝るなら最初からやるなよ。それに何だその言い方。どこの部署だ? 躾がなってないな」
「な、なんですってぇー!」
「以後気をつけろよ、このド新人が」
吐き捨てるように言い、彼は資料を小脇に抱えて歩き去っていった。
すれ違いざまに感じた香水の香りと、靴音の鋭さが妙に耳に残る。
――なに、あの人……サイッ……テェー!!
心の中で悲鳴を上げつつ、私は急いで課長室へ向かった。
「有動さん。ちょうどいいところに来たね。資料はそこに置いといてちょうだい」
息がまだ整っていない私に、課長がにこやかに声をかける。
「はい」
私は慌てて姿勢を正し、指示された場所に資料の束を置いた。
「今日から正式配属になるって話、覚えてるね?」
「……は、はい」
「有動さんに秘書として付いてもらう役員を紹介するよ」
私は胸を張って頷いた。
――ようやく研修を終えて、一人前の秘書としてスタートラインに立つ日。
「私たちも自信をもって送り出せる。彼のもとでしっかり頑張るんだよ」
「はい、ありがとうございます」
自分を信じて、頑張るしかない――そう思った、その瞬間。
課長が差し出した資料の一番上に、見覚えのある名前が躍っていた。
――桐生尚也。
桐生?
その苗字はこの会社の社長、会社の者なら誰でも知ってる。
「……えっ……」
小さな声が漏れたが、課長は気付かずに話を続ける。
「若くして役員入りの切れ者だよ。君にはいい経験になると思う。頑張ってね」
「は……はい」
今さら気後れしてしまう。
私にこの会社の御曹司の秘書って……。
頑張るどころか心が折れそうです課長。
必死で笑顔を作り、会釈した。
だけど、頭の中では、赤いサイレンが鳴りっぱなしだ。
「あ、そうだ。これが尚也さんの写真ね」
課長が見せた資料を目にし、私は目のくらむ思いがした……。
――よりによって、あの人!?
――サイッ……テェー!!!!!
会議室を出た瞬間、足取りがふらついた。
周りの同僚たちはいつも通り忙しそうにしているのに、私だけ別世界に取り残されたみたいだ。
――いやいやいや……私、本当に大丈夫?
◆◆◆
指定された役員フロアの一室。
私は扉の前で一度深呼吸をしてからノックをした。
「どうぞ」
低いが透き通った声。
震える肩と手を抑えつつ、私はノブを回す。
「失礼いたします」
開けた瞬間、ソファに腰掛けてスマホをいじっている男の姿が目に入る。
――朝、私を怒鳴りつけた張本人だ。
「……あの、秘書として配属になりました、有動未春です。本日からよろしくお願いいたします」
深く頭を下げた私を見て、彼の指先が止まり、スマホをテーブルに置いた。
見開かれた目がすぐに細まり、鋭い光を宿す。
「何! お前だったのか!」
半ば呆れ、半ば笑うような声。
エレベーターの前で出会った出来事を思い出したかのような視線に、私の背筋が一瞬で冷えた。
「……!」
“お前”って何!?
敬語とか無いの!?
心の中でツッコミを入れつつも、私はすぐに営業スマイルで机の横に立った。
目を丸くして私を見ていたが、ハズレくじを引いたかのような目になる。
「川本課長が得意げに期待してくれと言っていたが……これは参ったな。クレーム入れなきゃいけないぜ」
「な、なんですってぇー!」
――思わず言葉にしてしまった……。
でも私のことならともかく、課長の悪口は許せないわ。
「失礼ね。課長は悪くないでしょう!」
私の言葉に彼が反応した。
「まぁ、……そうだな。失礼は認める。川本さんには言わないようにしておく」
「わかればいいのよ」
私の態度に彼が少し怒りを露わにする。
「しかし、何様のつもりだ。お前の立場は何なんだよ?」
――ハッ!しまった。
「も、申し訳ございません……言い過ぎました」
「わかればいい。俺は桐生尚也。営業部門の役員をしている。さっきも聞いたが、もう一度、君の自己紹介をしてくれ」
彼は急にスイッチが入ったみたいで、背筋が伸びて私に指示する。
「は、はい! 有動未春です。今日から秘書として身の回りのお世話をさせていただきます。よろしくお願いいたします」
悔しいが、彼に深く一礼した。
「ほう、やればできるじゃないか。なるほど、川本さんの見立ても間違ってはいないのか……」
私の短い自己紹介に何かを掴んだかのよう。
少し声が柔らかくなったのを感じる。
その後、互いの名刺を交換し、簡潔に業務のレクチャーを受けた。
――そして、秘書としての業務が始まる。
「それでは、これからのスケジュールについて……」
「そこ置いとけ。後で見る」
「は、はい……」
渡そうとした資料をテーブルに置くと、彼はスマホを片手に「コーヒー飲みたいな」とぼそり。
命令でもなければお願いでもないその言葉に、私は一瞬固まった。
「……か、缶コーヒーでよろしいですか?」
「ブラック」
彼は視線も向けずに答える。
「かしこまりました!」
――わかりましたよ、ブラック……ブラック……心もブラック!!
心の叫びを押し殺し、私は給湯室へ向かう。
戻ってきてコーヒーを置くと、彼はようやくスマホを机に置き、無表情でこちらを見た。
「で? お前、秘書歴は?」
「ひ、一週間の研修を終えたばかりでして……!」
「何だ……新人か」
彼の目には光が差し、顎に手を当て何かを思案し始めた。
「す、すみません!」
「謝るなよ、聞いただけだ」
その言葉に再び固まる。
――怒ってないなら言い方どうにかして!!
「まあ……お前のペースでやればいい」
そう言ってコーヒーを一口。
その声色に少しだけ柔らかさが混じった気がして、私はほっと息をついた。
――とりあえず私にとっての、人生で初めての秘書業務は、こんな感じで始まったのよ。
◆◆◆
「今日は役員総会に同席してもらう。初日だし、まずは会社の空気を掴んでおけ」
桐生さんにそう告げられた時、私は心臓が飛び出そうになった。
――役員総会って、初日からハードすぎません!?
「わ、わかりました。準備を手伝います」
戸惑いながらも、桐生さんの準備を粛々とサポートした。
指定された会議室は広く、ホテルの宴会場のように照明が明るい。
円卓を囲むのは会社を動かす役員たち。
その隣に一人ずつ秘書がついている。
全体の空気の重さに足がすくむ。
桐生さんの少し後ろを歩き、用意された席に着くと、私は息を殺すように姿勢を正した。
ざわめきが静まり、重厚な扉が開く。
その瞬間、会議室の空気が一変した。
全員の視線が一点に集まる。
白い上品な着物に身を包み、背筋をすっと伸ばした老婦人がゆっくりと入ってきた。
その立ち居振る舞いだけで、空間がまるで別世界のように見える。
なんだか、言い知れぬ違和感を覚える。
「本日の議題に入る前に――」
澄んだ声が会議室全体に響き、私は無意識に目を見開いた。
――え、あの声……?
その人がこちらを向いた瞬間、胸の奥が大きく波打つ。
優しい笑み、覚えのある横顔。
――綾乃、さん……!?
「か、か、カイチョーですってぇ!!!!」
今日一番驚きのあまり、私は軽い震盪を起こして意識が遠のく。
桐生さんが気づいて、私を支えてくれたところまでは何となく覚えてる。
次に意識を取り戻したのは、医務室のベッドの上だった……。




