第55話 桐生グループの揺らぎ、新たなプロジェクト
桐生グループは、ここ数ヶ月で大きな転機を迎えていた。
化粧品ブランド「RUMINE」は順調に売上を伸ばし、業界紙でも“再生の象徴”と称えられるまでに回復していた。
だが、その一方で――
取引先との関係に、小さなほころびが生まれていた。
朝の役員会議。
いつになく重苦しい空気が流れていた。
「九条グループが、また別の外資系ブランドと接触を始めたとの情報があります」
経営戦略室の部長が報告する。
その名を聞いた瞬間、会議室がざわめいた。
九条家――麗華さんの父が率いる巨大財閥。
先日、交渉が決裂したばかりだ。
「真偽は?」
桐生専務が淡々と問いただす。
「まだ確証はありませんが……少なくとも、契約の一部を外資へ再配分する動きが見られます」
彼の瞳が静かに光る。
「何、焦ることはない。一度提携解除した相手だ。気にせず、他の提携先に目を向けるんだ」
まるで氷のような言葉が、会議室を支配した。
「それで本当にいいんですか?」
「ああ。今懇意にしてくれている相手を逃すな」
「承知いたしました!」
会議は終了し、役員たちが部屋を出て行った。
「桐生さん、本当に大丈夫なんでしょうか?」
私は思わず尋ねていた。
桐生さんは小さくため息を吐き、言った。
「大丈夫だ。あの麗華さんのことだ。信じて待つのみだ」
彼の瞳は深く澄んでいる。
その言葉に、不安や偽りは無かった。
◆◆◆
昼食を済ませ、午後の勤務時間。
秘書課のデスクで、私は三日後にある複雑な案件の資料をまとめていた。
「有動さん、専務、今日かなりピリピリしてるね……」
「うん……多分、いいニュースじゃなかったんだと思う」
先輩たちと小声で話す中、私の胸の中には、小さな不安が渦巻いていた。
(九条家……麗華さんのところ。何が起きてるんだろう)
それでも私は、手を止めなかった。
今は心配する時じゃない。
桐生さんの隣に立ち、支えることが自分の役割だと知っているから。
「有動さん、頼まれてたデータ届いたから、送っておいたよ」
「ありがとうございます。助かりました」
先輩に軽く会釈し、ジュースの差し入れをする。
「サンキュ。困ったことがあったらまた言ってね」
「こちらこそ。頼りにしてますよ」
ファイルチェックと圧縮ファイルのウイルスチェックを終えて、得意先へ送信完了した。
これで案件の山場は越えることができた。
あとは桐生さんのさじ加減にかかっている。
(私ができるのはここまで。あとは頼みましたよ)
桐生さんに完了報告を済ませ、次の業務に取りかかった。
◆◆◆
夜の専務室。
資料を届けに入ると、桐生さんは机に両肘をつき、静かにペンを転がしていた。
「もう遅い時間ですよ。少し休んだ方が」
「……いや、まだやることがある」
「でも、顔色悪いです」
私は静かに近づき、デスクの隅にコーヒーを置いた。
その香りに、桐生さんの眉が少しだけ緩む。
「……ありがとう」
短い挨拶。
でも、その一言に込められた信頼が、確かに伝わる。
「九条との関係は、まだ断たれてはいない。だが、現状では危うい」
桐生さんの表情が険しい。
「もし彼らが俺たちから完全に離れれば……業界内での影響は避けられない」
「……ですが、桐生さんと麗華さんなら、きっと乗り越えられます」
私の言葉に、桐生さんはうっすら微笑んだ。
「根拠は?」
「だって、私が信じてるので」
一瞬の沈黙。
桐生さんの驚く目。
堪えきれず、彼はぷっと笑い出した。
「そ、そんなに笑わないで下さいよぉ」
「すまん……だが、心強いな」
「そう思うなら、休んでくださいますか?」
「ああ、君には負けたよ」
「じゃあ、コーヒーをお淹れしますね」
立ち上がり、準備する。
「ああ、助かる」
九条家のことは、麗華さんに任せればいい。
私たちが思い悩んでもどうにもならないから。
コーヒーを出し、一息ついてもらう。
◇ ◇ ◇
翌日の桐生グループ本社。
重厚な会議室の扉が閉じられた瞬間、中の空気は張り詰めていた。
「――九条グループ、取引停止を検討中とのことです」
経営戦略室の報告に、ざわめきが広がる。
「九条が離れれば、広告塔としての影響は甚大です」
「ブランド価値が下がれば、国内シェアも危うい」
役員たちの声が次々と飛び交う。
その中で、ただ一人、桐生専務だけが静かに沈黙していた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「――動揺する必要はない」
その低く落ち着いた声に、会議室のざわめきが止まる。
「九条家の動きは想定の範囲内だ。我々が恐れるのは“相手の判断”ではなく、“自分たちの覚悟”が揺らぐことだ」
その言葉は、淡々と、しかし鋭く響いた。
「九条が他社や外資と手を組むなら、我々は“日本発の力”を示せばいい。そのために――新しい合同プロジェクトを立ち上げる」
少しの沈黙の後、再びざわめきが起こる。
「合同プロジェクト、ですか……?」
「「RUMINE」を核に、国内企業を巻き込み、“日本の美”を再定義する。製品だけでなく、文化・芸術・社会性をも含めた総合ブランドにする」
その瞳は真っ直ぐに未来を見据えていた。
「それができるのは――我々しかいない」
◆◆◆
嵐のような会議が終わった。
役員が去った会議室には、静けさが戻っていた。
私は資料を片づけながら、少し息をついた。
誰もが、桐生さんの言葉に心を動かされた。
けれど、誰よりもその気持ちを強く感じていたのは、私だった。
(桐生さん……やっぱり、すごい人だ)
周囲が迷っても、恐れても、彼だけは前を向く。
その背中に、人を動かす“信頼の力”が宿っていると感じられた。
◇ ◇ ◇
専務室での休憩時間。
「失礼いたします。只今戻りました」
ドアを開けると、桐生さんが資料に目を通していた。
「お帰り。疲れてないか?」
「はい。お陰様で少し休めました」
「そうか。それならよかった」
優しい目を向けてくださっている。
そうだ、言わないと。
「き、桐生さん。新プロジェクト案、素晴らしいと思います」
「そう思うか?」
「はい。きっと、桐生グループが本当の意味で“変わる”きっかけになるはずです」
私の言葉に、桐生さんは静かに頷いた。
「変わる、か……。俺自身も、まだ変わらなければならない部分が多い」
「そんなこと……」
そう言ってから、ハッとなって私は口をつぐんだ。
「構わんよ。率直な意見を言ってくれれば」
「すみません――でも、桐生さんがそう思っている限り、きっと会社も良くなります」
そう言葉にして、何だか曖昧なことを言ったなと反省してしまう。
けれど、桐生さんはわずかに表情を和らげた。
「ありがとう。救われた気分だ」
それは、上司から秘書への言葉ではなく――
一人の“男”から“信頼する女性”への、真摯な感謝だった。
◆◆◆
私は帰宅し、今日の出来事を思い返していた。
(“合同プロジェクト”……か)
桐生さんがあんな風に言葉を紡ぐのを見たのは初めてだった。
力強くて、温かくて、そして――少しだけ寂しそうでもあった。
――桐生さんは、ずっと前を見ている。
私は、その隣で何ができるだろう。
手帳を開いて、メモのページを開く。
そして、静かにペンを走らせる。
『信頼は、覚悟の形。桐生さんを支える力になりたい』
書き終えて手帳を閉じた時、外の風が優しくカーテンを揺らした。
――その風が、まるで未来へ続く“追い風”のように感じられた。




