第54話 “信頼”という絆、寂しさの天秤
週明けの朝。
会議の資料を両腕に抱えてエレベーターを降りた瞬間、ふと、廊下の先に見慣れた背中が見えた。
桐生さん――いや、桐生専務。
彼が専務に昇格してから、数日が過ぎていた。
周囲の空気は一層張り詰め、誰もが彼を“上司”として見るようになっていた。
けれど、私にとっては……いつもと変わらない人。
仕事に厳しく、でも優しい目で私を導いてくれる人。
「……おはようございます」
声をかけ一礼する。
彼はこちらに振り返って、柔らかく微笑んだ。
「おはよう。今日も、頼りにしている」
その言葉に、胸がじんと温かくなる。
職場では常に“上司と秘書”。
でも、私のことを“恋人”に選んでくださった。
それが今の私たちの形。
けれど、それで十分だ。
◆◆◆
会議が始まる。
新ブランドの今後の販売戦略をめぐって、各部署の意見がぶつかる。
利益の数字、コスト、スケジュール――。
冷静な議論の中に、時々、感情の火花が散る。
私は、そんな空気を少しでも和らげるため、ひたすらメモを取りながら、先取りして流れを整理していく。
「有動、例の市場レポートを」
「はい、こちらです」
差し出した資料を受け取る桐生さんの指が、一瞬だけ私の指先に触れた。
誰にも気づかれないほどの小さな接触。
でもそれだけで、心臓が跳ねる。
(……平常心、平常心)
会議は白熱しかけるが、桐生さんが淡々と要所を締めていく。
終わる頃には各部署の意見を吸い上げ、綺麗にまとめ上げられていた。
そして桐生さんに触れた私の指先も、みんなの熱にほだされ、かすかに汗ばんでいたのだった。
◆◆◆
夕刻、秘書課室でようやく情報の整理がついた。
その足で専務室に向かう。
入室すると、いつもより疲れた顔の桐生さんがパソコンの画面に集中している。
「桐生さん……少し休んだ方がいいですよ」
私の声を聞きながらも、画面に釘付けだ。
「……そうしたいが、今はまだ無理だ」
「そうですか。では、コーヒーをお淹れしますので、飲んでください」
カップを用意して丁寧に注ぎ、デスクの上にそっと置く。
彼は手に取り、一口だけ飲む。
そして、穏やかな声で言った。
「……不思議だな。君が淹れると、疲れが少し軽くなる」
「そんな……いつも通りです。気のせいですよ」
「いや、本当だ」
ドキッと心臓が跳ねる。
「ま、まあ……心を込めて淹れていますけどね」
照れ隠しでつい言ってしまった。
そのあと少し、静かな沈黙に包まれる。
オフィスの外では残業の音が響いているのに、この部屋だけ、まるで世界が止まったようだった。
「有動」
突然、桐生さんに呼ばれる。
「はい?」
不意を突かれて、声が上ずってしまった。
「……これから先、俺はもっと忙しくなる。だが、君がいれば不思議と大丈夫だと思えるんだ」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「そ、そうですか……私も、桐生さんがいるから頑張れるんです」
言葉を重ねるたびに、心が温かくなる。
そして気づく――これはもう“恋”だけじゃない。
互いを信じ、支え合うことでしか得られない安心。
その信頼感が、私たちの“絆”になっているのだと。
◆◆◆
夜、帰り際。
エントランスで、桐生さんが待っていた。
「今日は送っていく」
「いえ、大丈夫ですよ。遅くまでお仕事あるでしょう?」
「構わない。……俺の方が、君と話したい」
その一言で、何も言えなくなった。
車の中で流れる静かな音楽。
外の街灯が、二人の影を交互に照らしていく。
「……信頼って、不思議ですね」
ふと呟くと、彼が小さく頷いた。
「愛よりも、長く続くものだ」
その言葉が、心に深く響いた。
この人となら、きっとどんな日々も越えていける。
そう確信できた瞬間だった。
夜の街を走る車のライトが、未来へ続く道を照らしていた。
私のマンションの前で車が止まる。
「有動、明日もよろしく頼む」
桐生さんの優しい微笑み。
ほんと、ズルい。
私は無言でそんな彼の顔に近づいた。
頬に短い口づけ――
顔を放すと、彼は目を丸くしていた。
ふふっ、してやったり。
硬直して何も言い返してこない。
「信頼もいいですが、……淋しいんです」
踵を返し、車を降りようとした。
すると突然、右肩に手がかかる。
ぐいと引き寄せられ、抵抗できない。
「未春……」
抱き寄せられ、気づけば唇が重なり合っていた。
目を閉じ、唇の柔らかさをしばし味わえた。
尚也さんも我慢していたのかもしれない……。
わずかな時間のやり取り。
けれど、愛を確かめ合えた瞬間だった。
「また明日」
「はい。おやすみなさい」
尚也さんの車が走り去る。
手を振り、見えなくなるまで見送った。
夜風は少し冷たかったが、心はぽかぽか温かい。
「尚也さん、ありがとう……」
家に帰る足取りは、とても軽かった。




