第52話 心ほどけて、また結んで
週明けのオフィス。
少しだけ早めに出社した私。
ぐっすり眠ったのか、意外に早く目が覚めてしまったのだ。
昨日の感覚がまだ心の中に残っている。
桐生社長、美沙子夫人との会話。
緊張しっぱなしだったはずの時間。
それがまるでオセロがひっくり返ったように、素敵なひと時となった。
秘書課室のコピー機にたまったFAXを仕分けながら、思いは巡る。
そして自分の席へと戻る。
ふと、別の情景が脳裏を支配する。
けれど、パソコンの電源を入れ、机を丁寧に拭きはじめた。
起動後のパソコン画面を見て、はたと指が止まる。
――あの夜の温もりが、まだ離れない。
肌に残る感触と、心の奥の安堵。
けれど同時に、どこか落ち着かない。
(……何で、なんで今なのよ!)
そんな心配をよそに、ドアが開いた。
「おはよう、有動」
桐生さんの低い声。
いつも通り――のはずなのに、声が聞こえた瞬間、かあっとなって胸の奥が熱くなる。
「お、おはようございますっ!」
変に声が裏返って、出社してきた秘書課の同僚たちが一瞬こっちを振り返る。
そんな私を見て、桐生さんが小さく咳払いをした。
「先週出してもらった資料、助かった」
淡々とした短い言葉。
「あ、いえ! あの、昨日は……こちらこそ、その、ありがとうございましたっ!」
変な言い回しになって、さらに赤くなる。
彼が少しだけ微笑んだ気がした。
目を合わせられなくなり、俯いてしまう。
(……ダメだ、まだ意識しちゃう)
「後で業務の詰めをしよう。常務室で待っている」
「は、はい」
そう言い残し、桐生さんは秘書課室を出ていった。
あんまりここで褒めたりしないでほしい。
ほんと、ズルい人……。
◆◆◆
午後の常務室。
連日の案件対応で、息つく暇もなく働きどおしだ。
開発課からも声がかかっている。
資料の山を前に、ふと気がつくと手が震えていた。
(あれ、私……寝不足?)
確かに最近、あまり眠れなかった。
いろんなことを思い出して……何度も。
――尚也さんの優しさ……とか。
その時、不意にデスクの上に包装された箱が置かれる。
顔を上げると、桐生さんが立っていた。
「……無理をしていないか」
差し出されたのは、ハーブティーのギフトセット。
「これ、リラックス効果があると聞いた。今の君に必要なものだと思う」
「え……ありがとうございます」
その優しさに胸がいっぱいになった。
わざわざ買ってきてくださったのかな。
頂き物だったとしても、何というタイミング……。
それ以上言葉が出てこなかった。
◆◆◆
その日の夜。
帰宅後、いただいたハーブティー缶の包装をはがし、取り出した。
「すごい。高級ブランドなのかな」
箱の中に整然と並ぶ缶を少し見つめる。
今の私にとって、ありがたい贈り物だった。
その一つを取り出し、蓋を開けてみる。
香りを楽しみながら、お湯を注ぐ。
湯気に包まれて目を閉じる。
心がほどけていく。
でも、同時に――少しだけ怖い。
(このまま、身も心も委ねていいんだろうか……)
“尚也さんの恋人”という立場が、まだ少し見合っているか不安になる。
だけど、もう引き返せない場所まで来ていることもわかっている。
尚也さんのご両親にも顔合わせしたのだから。
しっかりしろ……私。
そんなことを考えながらスマホを手に取り、メッセージを開く。
《今日もありがとうございました。ハーブティー、すごくいい香りでした。今度、一緒に飲みたいです》
送信ボタンを押して、胸に手を当てた。
心臓の鼓動が、また早くなる。
けれど、返信はなかった。
桐生さん、忙しいのかな……。
仕事で疲れてなければいいけれど。
数分後、ピロンと通知音がした。
スマホの画面を確認すると、新着メッセージ。
《喜んでくれて何よりだ》
短い一言。
けれど、私の心臓が跳ねる。
素早く指を動かしタップして、送信。
《会社にも持って行ってお淹れしますね》
《気遣い、感謝する》
ぎこちなさが何だか可愛い。
マグカップに注いだハーブティーの香りを楽しみつつ、疲れが癒えていくのを感じていた。
こうしてつながる時間が、もっと増えればいいのに。
用意していたクッキーをほおばり、そんなひとときを過ごすのだった。




