第6話 裏切りは蜜の味
あの日から一週間。
熱いシャワーが肌を流れ落ちていく。
白い湯気に満ちた浴室で、鏡の中の顔がほんのり赤く霞んでいる。
肩を伝う水滴が、勝利の印のように肌に散っては消えた。
湯滴が肩から滴り落ちるたび、心の奥まで甘い熱が満ちていくようだ。
――やっと手に入れた。
未春から奪ってやった。
浩康も、何もかも。
じっくり時間をかけて計画を練り、掴んだ幸せ。
レストランで私を見た時の、未春のあの表情……。
私に吐いた悔しさ丸出しの言葉。
今でも脳裏に焼き付いているわ。
タワーマンションの高層階、浩康の家。
宝石をひっくり返した夜景が一望できる。
私を選んだ浩康が、壁一枚隔てたベッドでタバコをふかしている。
――最高の至福。
(ざまあみろ、未春。今頃は絶望に打ちひしがれ、悔しさを噛みしめていることでしょうね)
曇った鏡に映る自分の笑みは、勝者の証のように眩しい。
……なのに、あの日の翌日から、彼の笑顔は少しぎこちない。
最初は気のせいかと思ったけれど、日に日に彼の苛立ちが感じ取れる。
聞き出そうとするたび、気にするなと無言を貫いている。
でも、あの子はもう終わりよ。
勝ったのは私なんだから!
シャワーを止めると、静けさが戻った浴室に自分の鼓動だけが響いた。
バスタオルで髪をざっと拭い、肌の水滴を丁寧に拭き取る。
髪を整えるドライヤーの温風が心地よく肌に伝わる。
鏡の中の私は、まだ頬が上気している。
勝ち誇った笑みはまだ消えない。
お気に入りのバスローブに腕を通し、腰のリボンをきゅっと締めた。
高揚感がまだ体の奥で熱を持っている。
――浩康は、私のもの。
その確信を胸に、私は浴室を後にした。
廊下を抜けて寝室のドアを開ける。
そこには、ベッドにもたれ、煙草の火をゆっくりくゆらせる彼の姿があった。
カーテンの隙間から差し込む月明かりに、横顔の影が濃く浮かぶ。
「……お待たせ」
声をかけても、返事はない。
彼は指先で灰皿に灰を落とした――が、その仕草はやけに荒い。
灰が小さく散り、テーブルに黒い点を作る。
胸の奥にざらりとした感覚が走る。
気のせい……。
そう言い聞かせながら、私はベッドの縁に腰を下ろした。
――胸の奥のざわめきが、少しずつ広がっていく。
それでも私は笑みを作り、彼の隣に身を寄せた。
浩康の手が、不意に伸び私の肩を掴む。
一瞬、抱き寄せられるのかと思った。
だがその手は、ごく自然な動作のように、私をそっと引き離した。
力は弱いのに、突き放された感触だけが鮮明だった。
私は笑みを崩さず、隣に座り直したが、背筋を伝う冷たさは消えなかった。
「……浩康!?」
私は思わず声を上げた。
彼の目に光はない。
その奥に渦巻く感情が、冷たい刃のように突き刺さる。
言葉が出ないまま、時間が止まった気がした。
次の瞬間、浩康は私に身体を向け、まっすぐ瞳を合わせる。
その視線に、逃げ場はなかった。
「伽耶。――結婚は無しだ」
「……え?」
喉が勝手に鳴った。
理解できずに固まったまま、私は静かに問い返す。
「……どういうこと?」
浩康は短く舌打ちし、苛立ちを隠さず髪をかき上げた。
「だからもう無理だって言ってんだよ。未春にタンカ切って以来、仕事がどんどん不調になってよ……それに、お前といると余計に疲れるんだよ」
言葉が刃物のように飛んでくる。
浩康の最近の態度にも納得がいった。
……そういう事だったの。
私はただ座ったまま、彼を見上げていた。
「お前の計画に乗ってやったが、一時の気まぐれだったんだ。
お前とならうまくやれると思ったし……未春の絶望した顔がちょっと見たかっただけなんだよ。
でもさ、やっぱ違ったな。未春のほうが……落ち着くんだよ」
一瞬、心の中で何かが軋んだ。
心臓の鼓動が遅れて、痛みを伴って耳に届く。
「悪いが、俺にはもうお前じゃ足りない。女ならいくらでもいる。これ以上は時間のムダだ」
浩康はそう言い切ると、タバコを灰皿に押し付け、立ち上がった。
白い煙がバッと広がり、部屋の空気がさらに重くなる。
足元が崩れる音を、耳の奥で聞いた気がした。
「……それで私が納得するとでも?」
奥底から沸いてくる絶望の影と怒りをよそに、浩康にぶつけた。
部屋の空気が一瞬凍りつく。
浩康は眉をひそめ、押し切るように肩を怒らせた。
「納得しようがしまいが関係ねぇだろ。もう決めたんだよ!」
そう言い放つと、乱暴にクローゼットを開け、ハンガーのシャツを一枚引き抜いた。
無造作に腕を通しながら、タバコの匂いと香水の残り香が混ざった空気が部屋に漂う。
まるでこの部屋から、私という存在を薄めていくように。
視線を逸らしたまま淡々と言い放った。
「お前とはもう終わりだ。荷物はまとめて送ってやる。……出て行ってくれ」
スマホと財布をポケットに突っ込み、彼はリビングの奥へと消えていった。
閉じたドアの音だけが乾いた余韻を残す。
私はその場に座ったまま、少しの間動けなかった。
胸の奥に広がるのは絶望――のはずだった。
けれど、浩康の言葉を聞きながらずっと、マグマの如く怒りが、体の奥から溢れ出るように感じていた。
――静けさだけが支配する寝室で、私の心には忍び寄る絶望感と烈火の怒りが渦巻いていた。
(……許せない)
私の中に一点の黒い憎悪の小さな灯が燈る。
(――殺してやる)
小さな灯は大きなうねりを伴い、黒い業火となる。
(私をコケにした罪、思い知らせてやる!)
黒い炎はもう消えない。
私は忍び寄る絶望感を押し殺し、立ち上がる。
無言のまま、私はクローゼットを開いた。
服や化粧品、残していた私物を次々と無造作にボストンバッグに詰め込んでいく。
視界の端で、夜景の明かりが窓に反射して揺れていた。
手は止まらない。震えもない。
静かに淡々と荷物をまとめる音だけが、寝室に乾いたリズムを刻む。
ドア越しに聞こえるテレビの音や浩康の息遣いすら、今は遠い。
バッグのジッパーを閉じると、部屋に再び静寂が落ちた。
私はバスローブを脱ぎ、淡い色のワンピースに着替える。
そして化粧台へと足を運んだ。
鏡に映った自分の顔は真っ赤だったが、淡々と化粧を整え、アイシャドウとルージュを引いた。
寝室に戻り最後に視線をやったのは、ベッドサイドの灰皿に残ったタバコの吸い殻。
そこにはまだ、彼の吐き捨てた言葉の匂いが残っている気がした。
ポーチから合い鍵を取り出し、静かにテーブルの上に置いた。
ボストンバッグを肩にかけ、寝室を出た。
リビングに座る浩康の扉の横を素通りし、玄関に向かう。
靴ズレないように調整して淡い橙色のパンプスを履き終え、重いバッグをかけたまま立ち上がる。
――カチリ。
鍵が回る音とともに、タワーマンションの高層階に吹き込む夜風の冷たさが頬を撫でた。
絶望感と黒い怒りが夜空と溶け合う気がした。
――後悔しても、もう遅い。
私は振り返らず、そのまま暗い廊下へと足を踏み出した。
パンプスのヒールが廊下に響く音が、やけに冷たく反響した。




