第46話 寄り添う温度、触れあう魂
その日の夜。
私たちは同じ部屋で、同じ時を共有した。
互いに惹かれあい、自然な気持ちでその時を迎えた。
尚也さんは常に優しく、淡々と私の心に寄り添ってくださった。
いつもと違い、私が必要な数だけ声をかけてくださった。
私は安心感に包まれた。
けれど、心臓は常に跳ねまくっていた。
相反する感情の中で、私は尚也さんの腕にそっと包まれていた。
何一つ不安や恐れはなかった。
――この時だけは、過去のすべてを忘れることができていた。
ただひたすらに、すべてを尚也さんに預けて。
二人の時は緩やかに、優しく溶けていった――。
◇ ◇ ◇
朝の光が、障子越しにやわらかく差し込んでいた。
鳥のさえずり。
湯の香り。
私はそんな雰囲気を感じながら、目を覚ました。
昨夜の雨が嘘のように、空は澄みきっていた。
そして、隣に眠る彼の穏やかな寝息を聞いていた。
大きくて頼りがいのある身体、凛々しい顔つき。
そして今、とても安らかな表情――尚也さん。
静かに寝返りを打つたび、薄い掛け布団がふわりと揺れる。
その横顔を見ているだけで、胸の奥が温かくなる。
(……夢じゃないんだ)
頬がじんわりと熱くなり、思わず自分の唇に触れる。
昨夜のすべてを思い出すと、また心臓が騒がしくなってしまう。
不思議と後悔は一つもなかった。
ただただ――心の奥から、安堵が広がっていた。
◆◆◆
「……おはよう」
瞼が開き、桐生さんが目を細めてこちらを見る。
寝癖も少し残っていて、珍しく柔らかい表情をしている。
「おはようございます。もう少し寝ててもいいのに」
「いや、君がいるのに寝ていられるほど図太くない」
「ふふっ。今の、名言ですよ」
「そうか?」
照れくさそうに笑うその姿に、胸がまた高鳴る。
この人の、こんな表情を見られる日が来るなんて――
最初に出会った時の私には、きっと想像すらできなかっただろうな。
そんな時、ふと桐生さんがつぶやいた。
「昨日は、痛くなかったりしなかったか?」
「え?」
気遣ってくれている?
昨日のことがぶわっと頭に広がる。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
私はそう言って、少し俯いてしまう。
本当はまっすぐ目を見て、微笑みたいのに……。
「そうか。それを聞いて安心した」
短い一言。
けれど、私にはそれで十分だった。
◆◆◆
朝食の席。
私たちは木のぬくもりが感じられる食堂にいた。
湯気の立つ味噌汁の香りが、空腹を刺激した。
「こういう時間、いいですね」
「……何がだ?」
「何でもない会話とか、一緒に食べるごはんとか。そういう何気ない時間が、すごく幸せで」
桐生さんは箸を止め、少し考えるように視線を落とした。
「……俺もだ」
「え?」
「今まで、誰かと“普通の時間”を過ごすことが怖かった。でも君といると、それが自然にできる」
心の奥で、ピーンと何かがほどける音がした。
言葉が見つからず、私は小さく頷くことしかできなかった。
「ありがとう、未春さん」
尚也さんは優しく微笑んだ。
その笑顔に、硬直した心がほどけた。
「いいえ。こちらこそ」
やっと私も、笑みを返すことができた。
◆◆◆
昼前、チェックアウトして旅館を出る。
駅までの道を歩く途中、小さな土産物屋の前で立ち止まった。
「尚也さん、これ見てください。木彫りのまつぼっくり、可愛いですよ」
「……まつぼっくり?」
「ほら、私の“幸運のお守り”です」
「ああ、あの時の。……じゃあ、これを買おう」
彼はその木彫りを手に取り、少しだけ笑った。
「これで、君の幸運が俺にも分けてもらえる気がする」
「それはちょっとずるいです」
「じゃあ、半分こだ」
そう言って、木の彫り物を二つに分け、一つを私の手に握らせた。
温かい指先が、わずかに触れる。
「ありがとうございます」
私は尚也さんに心ばかりの笑みを返した。
(この温度、きっと忘れない)
◆◆◆
新幹線の中。
隣り合う尚也さんは、小説か何かの本を読んでいる。
沈黙の中でも、ちっとも退屈も焦りもない。
至福の時間は続いている。
外を流れる景色を眺めながら、私はふと思った。
恋人同士になっても、私たちは“日常”の中に生きている。
明日になれば、また会社で“常務と秘書”に戻る。
けれど、それでいい。
お互いが自分の場所を持ったまま、寄り添える関係でいられたら……。
尚也さんが本を閉じ、こちらを見る。
「どうした?」
「いえ。……今がすごく幸せだなって思っただけです」
その言葉に、彼は少しだけ微笑んで言った。
「なら、今だけでなく、これからも幸せにしていこう」
その一言が、静かに胸に刻まれた。
「はい」
私は笑って返事した。
――愛は、言葉よりも穏やかに。
その感覚だけが、確かに心に残っていた。
車内に流れる空気さえ、爽やかな高原の中にいるような気分にさせてくれていた。
この時間はもうすぐ終わるのかもしれない。
――ただ、今だけはこのままこの感覚を、味わっていたいと思った。




