第45話 湯けむりの約束、ドキドキが止まらない
十日後の金曜。
「……この連休、予定はあるか?」
昼休み、常務室で書類を整理していると、桐生さんが唐突にそう言った。
「え、え? えっと……特には」
「少し、休もう。二人で温泉にでも行かないか」
桐生さん、仕事モードのはずなのに、意外な話……。
当然のごとく、心臓が跳ねてしまう。
「そ、それって……し、仕事の視察とかじゃなくて?」
「違う。……完全に“プライベート”だ」
プ、プライベートですって!
耳まで熱くなるのがわかる。
「……はい。ぜひ」
反射的に、口から言葉が出ていた。
考えるより先だった。
「そうか。場所は俺が見繕うが、何か注文はあるか?」
「い、いえ。お任せします」
「わかった。詳細が決まったらSNSで連絡する」
「はい」
そう言うと、あっという間に去っていった。
ぽつんと取り残される私。
ええええええっ!!!
これってまさかのお誘い、お誘いよねっ!!
心臓がバクバク跳ねまくる。
かあっと全身の血流と毛穴が開くのを感じてしまう。
――恥ずかしい!
思わず両手で顔を覆ってしまう。
けれど、心の奥底からうれしさがこみ上げてくる。
この思いだけは本物。
幸せな気持ちが全身を駆け抜けていく。
私、尚也さんから愛されてる……かも。
そう思うと、頬が緩んでしまうのだった。
◇ ◇ ◇
あっという間に当日が来てしまった。
東京から新幹線とバスで、二時間ほどの山間の温泉地。
自然の香りを運ぶ風が、柔らかく頬を撫でる。
「ああっ……空気が美味しい!」
「そうだな。都会と違って静かだ」
控えめに並んで歩く二人の足音が、石畳の道に吸い込まれていく。
旅館は落ち着いた木造づくりの老舗。
部屋には檜の香りが漂い、遠くから川のせせらぎが聞こえた。
「わあ……素敵です!」
畳に腰を下ろし、思わず声を上げる私に、桐生さんがふっと笑う。
「秘書課の仕事を忘れられそうか?」
「ええ。こんな素敵な場所だなんて……ありがとうございます」
窓から景色を眺め、互いに笑いあう。
こんなに心躍り、晴れやかな時間を過ごすのは、いつ以来だろう。
少しの間、部屋でゆっくりしてから、尚也さんと庭園を散歩に出た。
隣には彼のエスコート。
気遣ったり邪魔する人たちもいない。
けれど、まだもたれかかっては悪いよね。
そう思っていた矢先だった。
「未春さん」
そう言って腕をくいと寄せてきた。
「……今日は、いいぞ」
きゃあ――!
何てタイミングなの!
「で、でも……」
「遠慮しなくていい。それとも、嫌か?」
尚也さんのまなざしが私に向けられる。
私は、首を横に振った。
恐る恐る、尚也さんの腕に手をやり、腕を組んだ。
そんな私に何も言わず、淡々と前を向き、歩を進める。
風一つなく、緑豊かな庭園の中を、私たち二人だけが支配している。
心の中がぽっと温かい。
疲れも何も、癒されていく。
私は今、至福の時を過ごしていた……。
都会の喧騒から離れ、自然の空気を胸いっぱいに吸い込む。
同時に、尚也さんの匂い、ぬくもりを感じ取る。
そんな幸せを噛みしめ、時が過ぎていった。
◆◆◆
夕食は個室での会席料理。
色とりどりの料理が少しずつ、目の前にずらっと並んでいる。
「さあ、遠慮せず食べてくれ」
「はい、では、いただきます」
はにかむレアな尚也さんを見ながら、前菜をいただく。
「……こうしてゆっくり食べるの、久しぶりですね」
「いつも慌ただしいからな。今日は仕事の話は禁止だ」
「ええ!? じゃあ、何話せば……」
箸を進めながらも、少し戸惑ってしまう。
「……例えば、好きな季節とか」
「え、季節?」
「俺は冬が好きだ。空気が澄んでいて、余計なものが見えなくなる」
「へぇー……桐生さんらしいです」
「未春さんは?」
「私は、春。新しい風が吹く感じがして……」
「そうか、それも君らしいな」
自分でも照れくさくて、思わず箸先が震えた。
そんな私の姿に、尚也さんが笑った。
「君の話を聞いてると、何でも温かく思えてくる」
「そ、そんなこと言って……」
少し目をそらし俯くと、頬がじんわり熱くなるのを感じた。
そんな感じで、互いに談笑しながら食が進んだ。
食後、二人で露天風呂付きの足湯へ。
川のせせらぎと、湯気の中に舞う温泉の香り。
言葉がなくても、じわりと心が満たされていく。
「……こうしていると、時間が止まってほしくなるな」
「そうですね……でも、止まっちゃったら困ります」
「なぜ?」
「だって、また一緒に歩きたいから。ちゃんと前に進んで……」
その言葉に、彼の目が柔らかく細まった。
「……ああ。君となら、どこまででも行ける気がする」
尚也さんったら、まれに恥ずかしげな言葉を……。
心臓がバクバクしてる。
川面に反射する光がゆらゆらと揺れる。
湯気の中で交わる視線。
胸の奥で、何かが静かにほどけていった。
「この後温泉に入るといい。俺は後で行く」
「あ、ありがとうございます」
気遣いがとても優しい。
「では、お言葉に甘えます」
私はそう言って、足湯を出てタオルで足を拭く。
そして立ち上がり、桐生さんの方を見る。
「お先にいただきます。尚也さんもゆっくりしてくださいね」
「ああ、行ってらっしゃい」
彼の柔らかな笑みが心地よく心に響いた。
私は踵を返し、そのまま、女湯の暖簾をくぐった。
胸のドキドキそのままに、心地よい湯につかる時間を過ごしたのだった。




