第44話 緊張からの解放、誰かのために働くということ
ルミナリエ化粧品本社――朝の役員会議室。
昨日までの緊迫感が嘘のように、社内には穏やかな空気が流れていた。
海外ブランド会社との共同開発契約、正式に成立。
条件変更の要求は、桐生さんと私の資料整理と迅速な対応で回避された。
「桐生常務、今回の判断はお見事でした」
「有動秘書のサポートも正確だったと聞いています」
幹部たちの言葉に、私は深く一礼する。
彼らから拍手が起こった。
これまでの経緯が脳裏に浮かびあがり、心が熱くなった。
(……やっと、形になったんだ)
なおも背後から聞こえる拍手の音。
その中心で、桐生さんが静かに口を開く。
「本件は全員の努力の結果だ。特に、有動の資料精査がなければ成立は難しかった。感謝している」
一瞬だけ目が合う。
私は再び、今度は軽く一礼した。
けれど、彼の口調はあくまで“常務”としてのものだ。
それが逆に、誇らしかった。
役に立てて良かったと改めて思う。
「だが、これはまだ始まりに過ぎない。問題はここからだ。みんな、引き続き力添えをお願いする」
桐生さんの短くも力強い言葉。
「はい!」
会議に参加する全員が、一つになる瞬間だった。
◆◆◆
午後の休憩時間。
休憩室の窓際に私はいる。
温かい紅茶を手にして、私はほっと息をついた。
たった一、二ヶ月前まで、私はぽっと出の新人秘書で、誰かのために何かを成し遂げるなんて考えたこともなかった。
けれども、今は違う。
誰かの役に立つために動くことが、こんなにもうれしいだなんて。
「お疲れ。隣空いているか」
声に振り返ると、桐生さんが立っていた。
いつも通りのピリッとしたスーツ姿、手にコーヒーカップを持っている。
「はい。桐生常務も、お疲れさまです」
「今日は“常務”じゃなくていい」
その言葉に、思わず吹き出してしまった。
「じゃあ……桐生さんも、お疲れさまです」
小さく頷いた彼の目が、少しだけ和らぐ。
「昨日の件、ありがとう」
「いえ、私はただ……自分にできることをしただけです」
「それが一番難しいんだ。“誰かのために働く”とは、言葉にするよりずっと重いことだ」
桐生さんの声が静かに響く。
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。
「俺は、ずっと結果しか見てこなかった。でも君と働くようになってから、“過程”の大切さを知った」
紅茶の湯気が揺れる。
その中で、彼の表情がどこか穏やかに見えた。
「俺は君を、専属秘書としても恋人としても、誇りに思っている」
「うっ……」
その言葉は、静かに心の奥へ沁みわたっていった。
うれしいのに、涙が出そうで。
けれど、私はうっすらと微笑んで答えた。
「それ、ずるいです。そんなこと言われたら、もっと頑張りたくなっちゃいますよ」
私の言葉に、桐生さんは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、頑張れ。……いや、一緒に頑張ろう」
桐生さんの返した言葉に、何も言い返せなかった。
「わ……わかりました」
短く交わしたその約束が、何よりも強い絆になった気がした。
◆◆◆
夕方のオフィス。
残業が片付き、人気のない秘書課のオフィスに戻る。
借りていた資料を元の棚に戻し、鍵を閉めた。
そして私の席に戻ろうとすると、遠目にデスクの上に、栄養ドリンクと一通のメモを見つける。
確認すると、差出人は、同僚で弟子の莉子ちゃん。
その可愛らしい文字を見て、自然と笑みがこぼれた。
『未春師匠、いつもご指南、ありがとうございます! 私も師匠みたいに、“誰かのために頑張れる人”になりますね!』
桐生さんと同じこと言ってる、これって偶然?
「莉子ちゃん……あなたはもう立派にそうなってるよ」
私もまだまだ未熟だけれど、それでも誰かの背中を押せるようになれたなら――。
そう思い、栄養ドリンクを手にした私は、帰途につくためドアの隣まで行き、そっとタイムカードを押した。
オフィスの窓に映る夕暮れの街が、いつもより少しだけ、温かく見えた。




