第43話 突然のトラブル、揺るぎなき信頼
月曜の朝十時。
突然の出来事に、社内に緊張が走っていた。
桐生グループの新規大型プロジェクト――海外ブランドとの共同開発契約。
数十億ドル単位の案件で、桐生常務が直接統括している。
だが、その相手企業から突然「条件の再交渉を求める」との通達が届いたのだ。
一時間前に緊急招集され、各部署の責任者がオンラインで顔を合わせた。
そして、たった今から会議が始まる。
「条件変更……今更、どうして?」
「わかりません。ですが朝一番で、先方の本社から正式に連絡が入りました。今日中に返答を、とのことです」
私の報告に、会議室の空気が一段と張り詰める。
「対応案を三つに絞る。広報・財務・法務はすぐ確認に入ってくれ」
淡々とした桐生常務の声が、静かに会議室を支配した。
その顔は冷静そのもの。
けれど、指先がわずかに震えているのを、私は見逃さなかった。
◆◆◆
夕刻。
常務室に戻った桐生さんは、午後からずっと、機先を制しようと各部長へと指示を飛ばしていた。
私はデータの処理を手伝いながら、何も言えずにいた。
彼の眉間には深い皺。
いつもの淡々とした声も、少しだけ硬い。
(……焦ってる)
そう思った瞬間、桐生さんから私に指示が入る。
「有動。悪いが、このまま残ってくれ」
「……わかりました」
即座に答えると、彼は視線をパソコンの画面に戻す。
それから数時間、言葉少なに作業が続く。
沈黙の中で、ただキーボードの音と時計の針だけが響いていた。
そして夜八時。
外はすっかり暗くなっていた。
手だけは動かしながら、少し窓の外を見つめる桐生さん。
その横顔に、疲労の影が落ちている。
私はそっと口を開いた。
「……桐生さん」
「どうした?」
「一度、席を外しましょう。少し休まないと、判断を誤ります」
「大丈夫だ。今は止まっていられない」
その言葉に、キュッと胸の奥が軋む。
(……仕事の時は、絶対に私を“恋人”として見ないんだ)
わかっている。
けれど、このまま放ってはおけない。
私は覚悟を決めて、少しだけ語気を強めた。
「……私は秘書として言っています。このままでは“常務の判断”に影響が出ます。だから、五分だけでも休んでください」
その瞬間、桐生さんの手が止まった。
しばしの沈黙。
やがて彼は、ゆっくりと視線を上げた。
「……相変わらず強いな」
「え?」
「それでこそ有動だ。君はそのままでいい」
今日初めて緩んだ微笑みを見せた。
そのわずかな笑みが、いつもの彼に戻った証だった。
胸の奥がじんと熱くなる。
「ありがとうございます。すぐにコーヒーを淹れますね」
桐生さんにそう言いながら、自分でも不思議だった。
――秘書として、“支えるパートナー”でありたい。
そう思える自分が、確かにそこにいた。
◆◆◆
夜十時を時計の針が回る。
桐生さんと私は、返答書類を添付し、慎重に最終確認を完了する。
そして、先方へメール送信した。
桐生さんは椅子の背に体を預け、大きく息を吐いた。
「……終わったな」
その声に、私もようやく笑みを返す。
「はい。お疲れさまでした」
「有動……」
名前を呼ばれる。
そして――少しだけ、ためらうような声で。
「……ありがとう。今日は“秘書”としてじゃなく、“君”に支えられた気がする」
「えっ」
その言葉に、心臓が跳ねた。
けれど、私はすぅと深呼吸してから、微笑んだ。
「じゃあ次は、“恋人”として休んでください」
一瞬、彼の目が丸くなる。
そして次の瞬間、静かな笑い声が漏れる。
その笑顔を見て、私も笑った。
桐生さんは背広を脱ぎ、椅子に掛けた。
そして私の隣に座り、肩と二の腕にもたれかかってきた。
夜のオフィスには、心地よい静寂だけが流れていた。
「有動……いや、未春さん」
尚也さんのまっすぐな眼差しに吸い込まれそうになる。
「これからも俺を支え、共に同じ景色を見て、付いてきてほしい」
「えっ……」
こんなことを言われるなんて……けれど、うれしい。
私、ちゃんと桐生さんの役に立ててるんだ。
そう思うと、心の奥がじんわり温かくなる。
「……はい」
たったそれだけの返事。
けれど、それでいいと思った。
「……少し、休む」
そう言って彼は瞼を閉じた。
そんな彼の気持ちは、態度できちんと伝わっている。
これからも、互いに寄り添いあっていきたい。
私の隣で仮眠を取る素の寝顔を見ながら、改めてそう思うのだった。




