第42話 社内での噂と戒め、会長からの依頼
あれからさらに数日が過ぎた。
社内の空気は明るさを取り戻し、皆が前を向いて業務に当たっている。
けれど、そんな雰囲気の水面の下では――
私たちにとって、新たな闇の波紋が少しずつ広がっていたのだ。
◇ ◇ ◇
お昼休みの食堂。
「ねぇ、有動さん。最近、桐生常務とよく一緒に出かけてない?」
テーブルに相席していた営業課の先輩が、私に切り出してきた。
「え、えっ!? な、何を言ってるんですか?」
焦って笑い飛ばそうとするが、隣の先輩も興味津々な顔をしている。
「最近、社内でちょっと噂になってるよ。桐生常務、前より優しくなったって」
「うんうん。“誰か特別な人がいるんじゃないか”って話」
フォークが手から滑りそうになる。
「そ、そんな……! 業務上のことですってば!」
「ふふ、そういうことにしておきますね〜」
「秘書の有動さんも気をつけなさいよ。そういう噂、すぐ広まるんだから」
彼女たちの笑い声が弾む。
「そ、そんなことを言われても……」
けれど、私は笑えなかった。
私は桐生さんの秘書、一番近い場所で仕事をしているから……。
(まずい。非常にまずい……まさか、もうバレてる?)
皆が談笑している間に、慌ててランチの食事をほおばる。
いつもより早めに食事を済ませ、そそくさと食堂を後にしたのだった。
◆◆◆
午後の業務。
秘書課での打ち合わせを終えて戻る途中、廊下の角で尚也さん――いや、桐生常務と会った。
「有動、午後の報告書類は?」
「あっ、はい。すぐお持ちします!」
きっちりとした声を出したつもりだった。
けれど、彼の目が一瞬だけ柔らかくなり、私の心臓は跳ねる。
すぐに彼は目線をそらし、足早に去っていった。
その背中を見送ると、ほかの部署の女性社員たちが遠巻きに見ているのが見えた。
(……やっぱり、まずい)
恐らく、“噂”はもう大多数の耳に入っている。
このままでは、私だけでなく、彼に迷惑をかけてしまうかもしれない。
◆◆◆
翌日、午前の業務時間。
突然、社長室から呼び出しがかかった。
ドアを開けると、桐生一成社長――桐生さんの父が静かに座っていた。
そして、その向かい側に、桐生さんも座っている。
「有動君。座りなさい」
社長が冷ややかな声で迎える。
「はい。失礼いたします」
私は一礼し、桐生さんが座るソファーの隣に腰を下ろした。
社長が私たちを一瞥し、話を始める。
「最近、社内で君達の噂が立っている。真偽のほどはともかくとして、仕事に支障はないかね?」
「い、いえ……特には……」
心臓が高鳴る。
「単刀直入に聞く……二人は付き合っているのか?」
心臓が大きく跳ねる。
「……」
私たちは黙って俯くしかなかった。
「……そうか」
社長は私から視線を外し、桐生さんの方を見て大きめの声で言った。
「尚也、公私のけじめはしっかりつけろ」
「……はい」
桐生さんの声は落ち着いていた。
まっすぐ社長の目を見ているが、その横顔はいつになく厳しく映った。
「若い男女が恋をするのは自由だ。だが、ここは会社だ。信頼で動く組織だ。節度をわきまえなさい」
「……承知しております」
「申し訳ありません」
社長の重い言葉に、私たちはなす術がなかった……。
――と、その時。
社長室をノックする音が聞こえた。
「一成、入るわよ」
どこか聞き慣れた声。
ドアが開くと、そこには綾乃会長の姿があった。
(綾乃さん!?)
「会長、どうしてここに?」
私より先に、桐生社長がスッと立ち上がり質問していた。
綾乃さんはそんな言葉をあっさりスルーし、私たちの方を見て言った。
「あら、もう来ていたのね。あなたたちを探してたのよ」
私と桐生さんは顔を見合わせた。
そして綾乃さんは社長の方に目を向ける。
「一成、もう話はしたようね」
「はい。彼らに問いただし、注意を与えました」
綾乃さんは小さくため息を吐き、私たちに目を向ける。
「尚也はもう少し社長と話をなさい。――そして未春さん」
「は、はい」
「私と少し、お話ししてくれないかしら?」
綾乃会長の目は澄んで、キラキラしていた。
「……わ、わかりました」
私の返事ににっこり微笑む。
「じゃあ尚也、しばらく未春さんを預かるわね」
「わかりました」
立ち尽くす二人をよそに、私は綾乃さんに付いて社長室を後にした。
会長室に通され、ソファーへ座るよう勧められる。
「し、失礼します」
恐る恐る腰を落とし、ふかふかのソファーに座った。
見上げると、綾乃さんがまっすぐな瞳で微笑んでいる。
「ご……ご無沙汰しております」
私は軽く会釈した。
「そうね。しばらく会っていなかったわね」
綾乃さんは手慣れた手つきで紅茶を用意し、私に出してくださる。
「ありがとうございます。私がすべきことなのに、すみません」
「いいのよ。今のあなたはお客さんだから」
綾乃さんは笑みを浮かべながら答えた。
そして、向かいのソファーにゆるりと腰かける。
「尚也とは、お付合いしてるの?」
いきなりド直球な質問が飛んでくる。
一瞬、声を詰まらせてしまう。
「……はい」
綾乃さんには嘘やごまかしは通用しないと悟った。
何より、心からの恩人にそのようなことはできない。
「そうなのね……。あの子もあなたの魅力に気づいたのね」
「そうかどうかはわかりませんが……尚也さんには感謝しています」
綾乃さんは私の目を見ると、再びにっこり微笑む。
「いい関係を築けているのね。……やはりあなたはただ優しい子というだけではなかったようね」
「綾乃さん……」
私は少し照れてしまった。
「ごめんなさい。今日はそんな詮索をするつもりで来てもらったわけではないのよ」
「……と、いいますと?」
綾乃さんは少し真剣な表情に変わった。
「実はね……あなたに頼みたいことがあるの」
「頼みたい……こと?」
綾乃さんは紅茶を一口飲んでから、続けた。
「ええ。この会社の仕事とは別の、あることを学んでほしいの」
「学ぶ?」
何だろう。さっぱり理解できなかった。
「今はすべてを明かすことはできないけれど、ひとつは帝王学ね。ふたつめはこの社会全体の組織としくみについて」
「えっ?」
なんだか話のスケールが大きくて、付いていけない……。
「そんなこと、私にできるのですか?」
「おそらく、できると私は信じてますよ」
綾乃さんは目を輝かせながら続ける。
「もう一つ、これは今すぐではないけれど、何年か経った頃にやってもらいたい……」
綾乃さんはそれに関しては、一つずつ丁寧に説明してくださった。
私も頭をフル回転させて理解を深めながら聞いた。
気づけば、三十分ほどが経っていた。
「……とまぁ、こんな感じね。長々と説明してしまったわ」
「いいえ。ですが、それらを学んだら、私、とんでもなくなりますね……」
私の言葉に綾乃さんが笑った。
「あなたならきっとできるわ。大丈夫よ」
「綾乃さん……」
綾乃さんは残った紅茶を飲み干す。
すると、思い出したかのように話し出した。
「ああ、それと社内の噂のことだけれど、そちらは私の方で何とかしておくわ」
「ええっ! そんなこと、させてしまっていいんですか?」
「任せておいて。悪いようにはしないから」
綾乃さんは目を輝かせ、微笑んだ。
「さあ、今日のところはもういいわ。戻りなさい」
「はい。色々と、ありがとうございます。できることはやってみようと思います」
「ふふ。いい心がけだわ。期待しています」
私は席を立って一礼し、会長室を後にした。
桐生さんとの噂のことは、もう綾乃さんを信じるのが一番だと直感した。
◇ ◇ ◇
夕刻のオフィスにて。
帰り支度をしていると、背後から静かな声がした。
「有動……色々すまん。まだ気にしてるのか?」
振り返ると、そこには桐生さんが立っていた。
ネクタイを緩め、社長との話が長引いたのか、少し疲れた顔をしている。
「い、いえ……その、少しだけ……」
「……すまない。俺の立場が、余計にそうさせてる」
いつもの桐生さんらしからぬ、申し訳なさげな表情だ。
「いいえ。この件に関しては、綾乃会長も気にされていました」
「そうか。何か言われたのか……」
「はい、まあ……」
桐生さんは間を置いてから、少し低い声で答えた。
「でも、俺は後悔してない」
「……え?」
尚也さんは私に近づき、そっと頬に手を寄せた。
心臓がドキッと跳ねる。
「君と関わったことも、こうして隣にいることも。俺にとっては“仕事の力”にもなってる」
淡々と、でも静かな声。
それだけなのに、胸の奥に温かいものが広がっていく。
私は小さく息を吐いて、微笑んだ。
「……はい。私も、負けません」
彼は静かに頷き、オフィスの明かりを背に去っていった。
その背中を見送りながら、私は思った。
――この恋は、きっと相当な“覚悟”が必要なんだ。
だけど、それでも……。
やっぱり、私はこの人と一緒にいたいと思った。




