第41話 時は流れて、“桐生さん”と“尚也さん”との距離感
桐生グループが化粧品トラブルによる信頼を取り戻してから、約一か月が過ぎた。
各部署が落ち着きを取り戻し、業績も回復の兆しを見せていた。
あの騒動の中心にいたルミナリエ化粧品は、むしろ“誠実な対応”で評価を上げた。
そして、桐生常務――いや、桐生尚也の名前は、業界誌でもよく見かけるようになった。
その隣で秘書として働く私は、いつもと同じように出社して、いつもと同じように朝礼の資料を確認していた。
(“いつも通り”のはずなんだけど)
視線の先には――会議室の奥に座る桐生さん。
白いシャツの袖を少し折り曲げ、ペンを回すその仕草。
誰よりも冷静で、頼りがいがあって……。
けれど、“恋人”になってからは、その一つ一つの動作が、胸の奥をざわつかせる。
「有動」
名前を呼ばれ、反射的に立ち上がる。
「は、はいっ!?」
上ずった変な声が出た。
「次の資料、三枚目だ」
「あっ、す、すみませんっ」
周囲の視線が瞬時に集まり、背中が熱くなる。
クスクスと笑う声も少し聞こえた。
彼は表情ひとつ変えず、ただ小さく頷いた。
(だ、だめだ……私、完全に動揺してる……!)
ついこの前までは、何を言われても動じなかったのに。
きっと今の私、顔真っ赤だ。
もう普通に業務する自信がないよぉー。
――上司としての桐生さんと、恋人としての尚也さん。
その境界が私の中で曖昧になるたびに、気が気でなくなる。
◆◆◆
お昼休みの食堂。
秘書課の同僚たちが談笑しながら食事を取っている。
莉子ちゃんと一緒のテーブルにいる私にも、その内容が漏れ聞こえてくる。
『ねぇねぇ、桐生常務って、最近ますますカッコよくなったよね』
『ねー、なんか雰囲気柔らかくなった気がしない?』
『やっぱ恋人でもできたんじゃないの〜?』
――その瞬間、フォークを落としかけた。
やめてーそういう話題……!
そんなことを考えている時。
「師匠、顔赤いですよ?」
莉子ちゃんからの鋭い指摘。
「な、何でもありませんっ!」
気が気ではなく、取り繕って水を飲む。
莉子ちゃんはぽかんとしながらも、私の取り乱す様子を興味津々の様子。
「マジですか、師匠?」
「うんうん。まじまじ」
取り繕う気持ちをあざ笑うかのように、胸の奥がじんじんと熱くなっていた。
◆◆◆
夕方。
会議が終わり、桐生さんと資料の整理をしていた。
日が落ちかけた窓際で、彼がぽつりとつぶやいた。
「……今日、少し疲れてたな」
「え?」
「会議の時、顔色がよくなかった。無理はするな」
「そ、そんな……ありがとうございます。平気です」
彼は一瞬だけ優しい笑みを見せ、すぐに視線を資料へ戻した。
その切り替えの速さに、胸がきゅっと締まる。
(ああ……仕事中は、“桐生常務”なんだ)
分かってる。
それが正しい距離。
多分、サインを送っても気付いてくれないんだろうな……。
“恋人”としての私は、その壁を感じるたびに、少しだけ寂しくなる。
◆◆◆
帰りの電車で、スマホの画面に“桐生尚也”の名前が光った。
《今日は助かった。ありがとう。ちゃんと休め》
たった一行の短いメッセージ。
けれど、読むだけで胸がいっぱいになる。
《ありがとうございます》
周りに人がいなかったら、たぶん私は顔を真っ赤にして笑っていたと思う。
(……ホント、ずるい人)
仕事の顔も、恋人の顔も、どちらも本気でぶつけてくる。
それに比べて、今の私といったら……。
体はほてり、心臓は跳ねまくり。
心の中はぐっちゃぐちゃにかき乱されてる。
桐生さんだけあんな毅然としていて、ホントずるい。
けれど、“桐生さん”と“尚也さん”との距離をちゃんと取りながら、これからは並んで歩きたい。
今まではできてたんだ。
きっとこれからもできるはず、うん。
(がんばれ、私)
小刻みに揺れる車内でそんなことを考えつつ……私はスマホをぎゅっと握りしめた。




