第35話 合わさる歩調、あと少し足りない……
朝のオフィス。
私はいつもより早く出社した。
デスクに向かっていると、不意に背後から声が。
「有動、おはよう」
桐生さんだった。
「おはようございます」
昨日の夜、あんなやり取りがあった翌日。
少し気後れしてしまう。
「……昨日の資料、助かった」
ふとしたこと――淡々とした口調。
けれど、その目は一瞬だけ柔らかさを帯びていた。
「い、いえ……! 私、まだまだで……」
どぎまぎしている心のまま、返事した。
「あれがなければ交渉が遅れていた」
短いけれど温かい言葉。
それだけで心臓が跳ね上がる。
(……こんなことで、うれしくなるなんて)
私は深く一礼し、コーヒーを淹れる準備をした。
◆◆◆
お昼休み。
食堂で莉子ちゃんと並んでお弁当を広げる。
彼女がニコニコしながら話を振ってきた。
「師匠、最近いい顔してますよ」
「えっ!? ど、どういう意味?」
「ふふ、何となくそう思っただけですよ」
悪戯っぽい笑顔に、ますます頬が熱くなる。
「ベ、別にそんなことはないよ」
(……やっぱり、顔に出てるのかな)
「そういう師匠も、私は好きですよ」
「もう、からかわないでよ。莉子ちゃん」
これじゃあ、どっちが師匠だかわかんない。
◆◆◆
午後の商談。
相手先が厳しい条件を突きつけてきて、場が凍りつく。
桐生さんが相手に説得を始めた。
だが、そう簡単にはいかない。
しばらくの後、何かが下りてきて、思わず私は口を開いた。
「……御社の長期的な利益を考えるなら、こちらの案の方が確実だと思います」
一瞬の沈黙。
「何を根拠に?」
「それは……」
私は閃くままに交渉相手に説明を展開した。
すると、段々と相手の表情が少し和らいでいった。
「なるほど……検討の余地はありそうだな」
場の空気が動き出し、交渉に拍車がかかっていく。
「ご検討のほど、よろしくお願いいたします」
桐生さんが頭を下げ、相手に臨む。
「わかりました。社に持ち帰り、前向きに検討しましょう」
交渉相手は立ち上がり、私たちは一礼して見送った。
そのあと、桐生さんがちらりと私を見る。
言葉はなくても、その視線だけで胸が熱くなった。
◆◆◆
会社への帰りの車内。
窓の外の街並みが流れていく。
沈黙が続いた後、桐生さんがふと口を開いた。
「……今日は、歩調を合わせてくれて助かった」
「え……」
思わず振り返ると、ちょうど前方の信号が赤に変わる。
車は速度を落とし、やがて停止する。
桐生さんは前だけを向いたまま続けた。
「俺はつい急ぎすぎてしまう。だが、君がいると、余計な摩擦が減る」
淡々とした声。
けれど、胸に真っ直ぐ届いた。
「……ありがとうございます」
小さな声で返すのが精一杯だった。
「助かっている。これからも頼む」
「は、はい」
信号が青に変わる。
桐生さんは再び車を走らせるのだった。
◆◆◆
家に帰り、疲れてそのまま布団に潜り込む。
天井を見上げながら、今日の一言が頭をよぎる。
『歩調を合わせてくれて助かった』
歩調を……合わせてくれるって……
ただ、桐生さんの役に立ちたかったの。
その思いが桐生さんに届いた――そう思えた。
《私は……まだ恋人になるって答えは出せません》
昨日はそう言って桐生さんに待ってもらった。
今日の私はどうだっただろう……
仕事では歩調を合わせられた。
けれど、まだあと少し、踏み出す何かが足りていない。
このまま桐生さんの懐に飛び込んでいい……。
難しくないはずなのに、何かがつっかえてできない。
「うーん、もどかしいなー」
そうしていると、睡魔が突然襲ってきた。
化粧も落とさないまま、私は眠りに就いてしまうのだった。




