第4話 黄色のカプセルと、始まりの“ご縁”
――カシャン。
検査機器の音が止み、技師さんが軽く手を振った。
「お疲れさま。全身MRIも異常なし。これなら退院できますよ」
ほっと胸をなで下ろす。
事故だったのに、骨折も打撲もない。
奇跡みたいだ。
ベッドで目覚めたのは、あとで聞いたら病院に運ばれた翌日だった。
彼から別れを切り出されてから、色々あって、少し時間が経ったからだろうか。
ほんの少しだけ、傷んだ心が癒えてきたのを感じる。
ベッドに戻ってから、今日一日の出来事を思い返す。
――自販機でお茶を買ったら、もう一本出てきた。
――昼食が偶然にも全部、私の好物だった。
――廊下で転びそうになった瞬間、職員さんが台車で通りかかり、支えてくれた。
「なんか、変にツイてる?」
あの黄色のカプセルを飲んでしまった瞬間から、胸の奥がずっとじんわり熱い。
――これが“運”なのかもしれない。
その時、スマホが震えた。
画面には、昨日SNSを交換した老婦人のアカウント。
“A.K.”というイニシャル。
《退院と伺いました。
もしよければ少しお会いできませんか?
改めてお礼をしたいのです》
胸の奥がじわりと温かくなる。
――偶然? それとも、これも“運”なの?
◇ ◇ ◇
晴れて退院となった。
病院を出ると、玄関前に黒塗りの車が停まっていた。
運転手がドアを開け、和服の老婦人がゆっくりと降りてくる。
彼女は軽く手を払い、車は走り去る。
彼女は私に気づくと、手を振りこちらへゆっくり歩いてきた。
「未春さん」
私は立ち止まり、思わず声を詰まらせる。
「あなたにどうしてもお礼を言いたくて。少しだけお時間いただけますか?」
微笑む老婦人に導かれ、私は近くの喫茶店へと足を運んだ。
◆◆◆
落ち着いたクラシック調の店内。
木の香りが漂い、マスターが二人分の席を整えてくれる。
まるで最初から私たちを待っていたかのように。
席について間もなく、老婦人が小さく手を打った。
「そうでしたわ、まだきちんと自己紹介していませんでしたね。私は綾乃と申します」
「私は有動未春です。今さらですけど」
互いに微笑んで、それだけで少し距離が縮まった気がした。
カップに口をつける前に、綾乃さんが静かに言った。
「大したことじゃない、と思っているでしょうけれど……。あなたは自分の命を投げ出して、私を庇ってくれたのですよ。それがどれほど尊いことか」
胸が熱くなり、言葉が出ない。
「……でも、私……全部を失って。何の価値もないのに」
本音がこぼれる。
綾乃さんは紅茶を一口含み、穏やかに微笑んだ。
「価値がない人なんていませんよ。特に――命を救ったあなたに、ね」
その眼差しは、アフロディーテ様に似ていた。
――『選ばないあなたの行く末を、私は楽しみに見ていますよ』
胸の奥で、ふたつの声が重なった気がした。
少し沈黙が落ちた後、綾乃さんは言葉を選ぶように切り出した。
「……未春さん。先日、お仕事を辞められたと仰っていましたね」
「え、あ……はい。実は婚約まで決まっていたんです。それで……。でも、後悔してないです。いや、してるかも……」
私のしどろもどろに、綾乃さんはふふっと笑った。
「強制ではありませんが……もしよければ、私の知人が募集している職があります。若い方を求めているところでね。あなたのような方なら、きっと力になれるはずです」
「……私が、ですか?」
驚きで声が裏返る。
失ったばかりの自分に、そんなことを言われるなんて。
「如何かしら? もちろん、無理にとは申しません。あくまでご縁があれば、という話です。ご縁とは、掴むか掴まないか――結局は本人次第ですから」
――“ご縁”。
その言葉に胸が震えた。
「もし、ご迷惑でなければ……そのお話、詳しく伺いたいです」
気づけば、お願いしていた。
綾乃さんは柔らかく頷き、カップを置いた。
「ええ、また日を改めましょう。焦らずに。あなたに合う形でお話できるようにいたします」
その声はとても柔らかで、ただ静かに背中を押していた。
――『選ばないあなたの行く末を、私は楽しみに見ていますよ』
アフロディーテ様の言葉が再び胸に響く。
私は初めて、自分の未来にほんの少しだけ“興味”を覚えた。
◆◆◆
「あの、今日は本当にありがとうございました!……その、ご馳走にもなってしまって」
「いいのよ。このくらいは私にさせて頂戴。満足していただけて、うれしいわ」
「はい!」
二人で笑いあった。
「車を呼ぶから、家までお送りさせて」
「そ、そんな……」
「遠慮しないでいいから。ね?」
「……はい。よろしくお願いします」
私の返事に綾乃さんはにっこり微笑んだ。
車はすぐに喫茶店の前にやって来て、私たちを乗せてくれた。
私は後部座席で綾乃さんの隣に座った。
病院の時と同じ、とても淡いいい香りがした。
私は運転手さんに行き先を聞かれ、マンションの住所を説明した。
運転手さんはこくりと頷き、滑るように車を発進させた。
綾乃さんはその後、私の隣でうとうとし始めた。
きっと疲れが出たのかなと思い、起こさないように努めた。
彼女の寝顔を見て、あの時、体が動いて本当によかったと、心から思った。
◆◆◆
二十分後、車は私のマンションの前に到着した。
私は綾乃さんを静かに起こし、到着したことを報告した。
「ごめんなさいね。つい寝てしまったわ」
「いいえ、お疲れのところ、来てくれてありがとうございました。そして送って下ったことも」
私のお礼の挨拶に、綾乃さんは笑顔で応えてくださった。
車を降り、一礼する。
運転手さんがトランクから荷物を出して、私に渡してくださった。
「お仕事の件、改めてSNSで詳細を送ります。待っていてね」
車越しに綾乃さんが私に伝えてくる。
「はい。ありがとうございます」
車のガラスが閉じ、綾乃さんが手を振る。
私も応えて手を振ると、車は走り出していった。
「綾乃さんからの紹介、どんなお仕事なんだろうな……」
そんなことを思いながら、私は家へと戻るのだった。
胸の奥で、またじんわりと熱が広がった。
――運命は、まだ始まったばかりだ。




