第31話 すれ違う距離、触れそうで触れない
翌朝。
デスクに向かっていると、不意に声をかけられた。
「昨日は……遅くまで残っていたな」
振り返れば桐生さん。
淡々とした声なのに、どこか柔らかさが混じっている気がした。
「は、はい。ちょっと資料をまとめてて……」
「有動……無理をするな」
その一言に胸が熱くなる。
「あ、ありがとうございます」
だけど、すぐに彼は視線を外し、普段通りに戻ってしまう。
まだ無理。
それに、私自身があの日以前のように仕事ができない。
ミスとかはしないけれど、どこか浮わついた感じが少しある。
――どうしよう。
このままじゃ私、ダメになっていくような気がする……
◆◆◆
昼過ぎ。
桐生さんに同行して取引先へ。
彼が淡々と話し、商談が進んだ。
ところが、肝心なところで、先方の担当者が急に感情をあらわにした。
商談が一時中断した。
硬直した空気の中、思わず私は口を開いた。
「……お話を整理させていただければ、もっと分かりやすくなると思います」
「秘書風情が、何がわかるというんだ!」
「お気に障られたなら、申し訳ございません。桐生が申している通り、弊社として前向きに検討するということです。どうか、気を落ち着けてくださいませ」
頭を下げ、丁寧に言葉を重ねる。
すると、相手の表情が和らぎ、再び会話が戻っていった。
「声を荒げてしまい、すまなかった。君の言葉、響いたよ」
「こちらこそ、ありがとうございました」
そのやり取りの横で、桐生さんがちらりとこちらを見ていた。
少し目が合った。
ほんの数秒のこと。
けれど、胸が高鳴った。
私、また余計なことをしてしまったかしら……。
◆◆◆
帰りの車内。
助手席で書類を整理していると、不意に声が落ちた。
「商談の件、よくまとめてくれた。感謝する」
――褒められた。
役に立ったんだ。
「い、いいえ。私の方こそ……ごめんなさい」
私、顔真っ赤かな……
バレてなきゃいいけど。
そんな私をよそに、桐生さんは一言。
「……昨日は、昼ご飯は中谷と一緒だったそうだな」
「え? あ、はい。莉子ちゃんに誘われて、お昼を」
「そうか」
ぽつりと短い返事。
でも、その一瞬だけ声のトーンが少し低く感じられた。
まるで――どこか、気にしているような。
「……あの、何か?」
「その……俺ともたまには食事してくれないだろうか」
「えっ?」
「ダメかな……」
「い、いえ。いいですよ。ただ、二人でいるところを見られたら……」
私はオフィスでの周囲の目を気にしてしまう。
「そうだな。では常務室で摂るのはどうだ?」
桐生さんがこちらをチラと見て提案してくる。
「あ、それなら大丈夫です。私、お弁当作って来ましょうか」
たまになら、私だってできるし。
「いいのか?」
「まぁ、毎日でなければ。莉子ちゃんとも食事する日を確保したいです」
桐生さんは私の言葉に安堵する。
「わかった。そういうことならスケジュールは君に任せるよ」
桐生さんが薄い笑みを浮かべてそう言った。
「わかりました。夜にでもメッセージで送りますね」
それきり会話は途切れ、静かな車内にエンジン音だけが響いた。
外の街並みを眺めながら、私は小さく唇を噛む。
(……気にしてくれてる? それとも、ただの偶然……?)
答えが見えない。
そんな心のざわめきを胸に抱えたまま、私は窓の外の灯りを追っていた。




