第3話 病院のベッドから、運命は回り出す……
――まぶしい。
瞼を開く。
光に呑まれたはずの視界が、真っ白な天井へと変わっていた。
消毒液の匂い。
規則的に鳴る医療機具の電子音。
病院特有の清潔さと静けさが、現実を思い出させる。
「……ここは……」
喉が乾いて声が掠れる。
身体を起こそうとした瞬間、腕にだるさが走り、現実感が一気に押し寄せた。
――やっぱり死んでなかった。
「――私、生きていたんだ……」
まぶしさに左手を上にかざし、手の甲をじっと見つめる。
そして頭を横にした瞬間、枕元に並んでいるものを見て息を呑む。
赤、黄、青――淡い光を宿し、脈打つように瞬く三つのカプセル。
まるで心臓の鼓動みたいに、生きているかのようだった。
「そんな……夢じゃなかったんだ」
指先で触れると、冷たい感触が返ってくる。
現実の中にあり得ない異物が混じっている――その違和感に胸がざわつく。
水が欲しくなり、テーブルの水差しに手を伸ばした。
その拍子に、シーツが乱れてカプセルが転がる。
「あっ――」
ひとつ、黄色のカプセルが私の口元へ跳ね上がり、そのまま喉へと滑り込んだ。
「えっ……ごほっ!」
ゴクリしちゃった!!
慌てて吐き出そうとしても――もう遅い。
胸の奥がじんわりと熱を帯び、何かが身体に染み込んでいく。
鼓動が早まるのを、自分でもはっきりと感じた。
「嘘!……飲んじゃった、の……?」
戸惑う私の視界の隅で、花瓶が倒れる。
反射的に手を伸ばし――次の瞬間、私は花瓶を手にしていた。
水一滴こぼさずに。
「……ええ! 今の……私?」
普段なら到底間に合わないはずの距離。
驚きと混乱で手が震え、息が荒くなる。
その時、ガチャリと病室の扉が開いた。
「まあ……目が覚めたのね」
杖をついた老婦人が立っていた。
花瓶を手に持つ私と目が合って、顔をこわばらせる。
めっちゃ恥ずかしい……
次の瞬間、彼女はふふっと微笑み、手際よく私の手から花瓶を取って元の場所に戻す。
再び私を見ると、顔をほころばせて涙ぐむ。
「あ、ありがとう。……貴女は?」
「昨晩あなたに助けられた者です。あなたが無事で本当によかったわ」
「……お婆さん……ああっ!」
――思い出した!
横断歩道の老婦人だ。
彼女はゆっくり静かに椅子に腰かける。
あの時は夜で分からなかったが、立派な着物を着こなし、上品さを醸している。
淡い香水の香りがほんのり漂う。
「助けてくださって、本当にありがとう。あなたが庇ってくれなければ、私は……」
「確かにあの車、危なかったですよね! 助かって本当によかった……」
思い出したけれど、今でもゾッとするわ……。
老婦人は私の目をじっと見て、話を続けた。
「でもね、あの時――あなたが大変なことになっていたはずなのに、時間が経って気づいたら、車道の向こうで倒れているあなたを見つけたの」
「え?」
彼女は一度天井を見てから、再び視線を戻して続ける。
「本当に驚いたわ。信じられなかった――まるで天使にでも護られたみたいに無傷で……」
「……車道の向こう……?」
私は呆然となり、言葉を漏らす。
記憶と老婦人の言葉の内容が噛み合わない。
――女神様の言葉、事実かもしれないんだ。
老婦人はベッドに近づき、私の手をぎゅっと握る。
「お嬢さん! お願いだから、私にお礼をさせてちょうだい」
「いえ……結構です。私なんか……」
私は断ったが、老婦人の目はそれを許さないと語っている。
「そんなこと言わないで。命の恩人に背を向けたら、私の方が苦しくなるわ」
「……でも、私……仕事も辞めてしまって。誰かに迷惑をかける立場で……」
困惑気味で、余計なことを言ってしまった!
老婦人は驚いたように目を見開き、口元に手を当ててほんの少し笑った。
「迷惑だなんて。むしろ私の方が、あなたに借りを作ったのよ」
彼女の目に輝きが宿るように見えた。
「何か事情があるみたいね……ほら、スマホ貸して。SNS、やっているでしょう?」
「え……あ、はい」
半ば押されるようにスマホを取り出し、互いに画面を操作する。
通知音が小さく響き、フレンド追加の文字が並んだ。
「――これで繋がりましたね」
老婦人は安堵の表情を浮かべ、杖を鳴らして立ち上がる。
「あんな事故の後ですし、今日はこれで失礼しますね。ゆっくり休んで。後日、必ず連絡しますから」
「……はい」
彼女は私の方へ振り返り、笑顔で一礼して、病室を出る。
扉が閉まり、再び静けさが戻る。
「どうしよう、約束しちゃった……」
私は老婦人の笑っている顔を思い出しながら呟いた。
少ししてから、自分のことに思いを巡らせた。
枕元には二つのカプセルが残り、手の中のスマホには新しい縁。
胸の奥には、アフロディーテ様の声がこだましていた。
『あなたの涙は、こんなにも美しい』
「色々ありすぎて……まだ、どうしていいか分からないよ」
迷いを抱えたまま、私は天井を見つめた。
――確かに運命は、もう静かに回り始めているのかもしれない……。




