第2話 逝った先に、女神さま出てきたんですけど!?
どのくらい時が経っただろう……
意識を取り戻した。
もう、死んだと思ったのに……。
目の前に広がるのは、雲ひとつない青空。
白い石造りの柱が並び、まるでギリシア旅行で見たパルテノン神殿の中に迷い込んだようだ。
「あれ……? ここ、どこ?」
石畳に反射する光がまぶしい。
耳に届くのは、風を切る羽音。
「で……でっか!!」
見上げると――五メートルはあるだろうか。
背中に巨大な翼を生やした若い女性が、こちらに背を向けて雲のクッションに座していた。
ここはきっと天国……やっぱり私は死んだんだ。
そう思うと、少し気が楽になった。
――死んだなら、もう過去の失恋に悩むこともない。
逃した魚は、大きかったが……。
私は身体を起こし、立ち上がってみる。
すると、私に気づいたのか、翼の女性がこちらを振り返り、ゆるやかに立ち上がる。
「あ、貴女は……」
『ようこそ、未春。私はアフロディーテ。愛と美を司る女神です』
澄んだ声が響いた。
「め、女神さまぁ!?」
『あなたは車に轢かれて死ぬはずでした。ですが――ちょうど次元の断層が開き、世界の綻びに落ちかけたところを、私が拾い上げたのです』
「……え? 私、死んでないの?」
アフロディーテ様はうっすら微笑む。
『そう。死んではいません。けれど、運命は少しだけ書き換えられました』
「“運命”……ですか?」
――私の“運命”。
私、そんなに悪いことしたのかな……
こうなる運命だったってこと?
『そうです。あなたが自暴自棄になって狂気に走らなかったことで、運命はよき方向に動き出しましたよ』
アフロディーテ様はにっこり微笑んだ。
「え?」
――よき……方向?
あんなことがあっても、死なずにここへ来れたから?
けれど、私の心にはぽっかり穴が開いたまま。
「アフロディーテ様、私は最愛の彼に捨てられ、すべてを失ってしまいました。もう、終わりなんです……」
私はその場に崩れ落ち、少し前に体験した辛すぎる現実を、一気に思い出してしまった。
とめどなく涙が溢れてくる。
『終わり? いいえ、未春。
あなたの涙は、こんなにも美しい。
愛を失い、傷つき、壊れそうになりながら――
それでも誰かを憎まずに流す涙。
それは人の弱さであり、同時に強さ。
その姿こそ、美そのものです』
「美しい……?」
私は大好きだった婚約者と最も頼れる親友に裏切られて、こんなにも絶望しているのに?
「信じてた人たちに裏切られたんです。……美なんてとんでもない。今の私は何の価値もないの!」
『価値がない? いいえ、違います』
アフロディーテ様の声は静かに、しかし重みをもって響いた。
『もしあなたが、あの場で怒りに身を任せていたなら――きっと殴りかかり、大切だった人たちを傷つけ、自らも傷つき、救える命を救えなかったでしょう。……けれど、あなたはそうはしなかった』
私はその言葉にハッとした。
――確かに、私は彼らの行為に怒りを覚えた。
でもそうはしなかった。
「確かに、裏切られて怒りは沸いたけれど……彼らは私にとって、長い間楽しい時間を共に過ごした“大切な人”だったから……」
私の口から出た本音に、アフロディーテ様は慈愛の光を放つ。
『その気持ちは、とても美しいです。その心、忘れぬよう大切にしなさい』
私は涙を拭い、こくりと頷いた。
「それで、私はどう終わっていないのでしょうか?」
『あなたはこの後、新しくこれからを生きていくことができます』
「……どん底からの、やり直しってことでしょうか?」
そう呟くと、涙で濡れた頬が少し冷たく感じた。
自分で言葉にしたことで、ほんのわずかに心が軽くなった気がする。
アフロディーテ様は静かに頷いた。
『まあ、そういう考え方もできるでしょうね。今までにとらわれない、新しい生き方を選んでいけるのです』
「まだ、気持ちの整理がつかないや……ですが、何となくは理解しました」
『今はそれで十分ですよ。では、あなたが取った美しい選択と行動に対し、女神の私から、あなたにひとつ贈り物を授けましょう――』
アフロディーテ様が片手をかざすと、掌の上に淡い光が集まっていった。
その光はやがて三つの粒となり、宙に浮かび始める。
赤、黄、青――それぞれがカプセルの形をして、淡く脈打つように光を放っていた。
『イメージと直感で、どれがいいか選びなさい』
透明な殻の中で、液体のようなものが揺れている。
見た目はただの薬のカプセル。
でも――目の前の光景が夢でないとすれば、これが“女神の贈り物”なのだ。
「ごめんなさい……選べません。また選んで間違えたら、全部壊れる気がするから……」
私はアフロディーテ様からの贈り物を受け入れる自信がなく、伸ばす手を下ろした。
そんな私にアフロディーテ様は、にっこり微笑んで答える。
『選ばないのですね。ですがそれもまた、選択のひとつなのです。ならば――あなたにすべてを授けます』
カプセルが光の帯を引いて、私の前で止まる。
『赤は力。黄は運。青は知恵。――飲むか飲まないかはあなた次第』
「本当に……よろしいのでしょうか?」
『ええ、持っていきなさい。――愛は独占できず、美は分かたれるものだから』
三つの光は私の両手に落ち、震える手のひらを満たす。
『飲むかどうかは、あなたに委ねます。選ばないあなたの行く末を――私は楽しみに見ていますよ』
その声は温かく、しかしどこか愉しげで。
――そして、視界が白く染まっていく。
(……私には、まだわからない)
迷いを抱えたまま、私は光に呑まれていった。




