第16話 急な接待、からの急接近
ある日の夕刻。
私は桐生さんに同行し、高級料亭の一室へと足を踏み入れた。
静かで上品な和室、並べられた料理の香りに、思わず背筋が伸びる。
「こ、こんな場所に……私まで同席していいんでしょうか」
小声で尋ねると、桐生さんは淡々と答えた。
「秘書が場を学ぶのは当然だ。気にするな」
その一言に、不思議と心が落ち着いた。
ただ、これから会う相手は懇意にしていただいている取引先の重役だ。
粗相のないよう努めなきゃと思うと、緊張してしまう。
「有動どうした? 顔に緊張が出ているぞ」
「……でも」
「ちゃんとフォローはしてやる。いつも通りでいいんだぞ」
「は、はい」
――そう言われると、余計緊張するんですが……。
◆◆◆
到着すると、すでに席には取引先の重役さんが座っていた。
私たちは深く一礼し、用意された席に着いた。
桐生さんと談笑を始めると、重役さんはふと私に目を向ける。
「お嬢さん、秘書さんか。若いのに、しっかりしてそうだな」
「い、いえ……まだまだ勉強中です」
思わず恐縮する私に、重役さんは笑みを浮かべた。
「ハハハハ。これは一本取られたな。そういう素直なところがいいんだよ。桐生君、いい秘書を持ったな」
私は顔を赤らめ、桐生さんの横顔を見た。
いつも通りの無表情――のはずなのに、ほんの一瞬、口元が和らいだように見えた。
会食は和やかに進んだ。
「うわぁ! すごい料理ですね。初めて見るものもあります」
料理の美しさに目を輝かせる私に、重役さんが言った。
「そうかそうか。いっぱい食べるといい。若いっていいね」
そしてクスっと笑われた。
何かやっちゃったかと、少し気まずい思いになる。
その時、桐生さんは軽く咳払いし、さりげなく話題を戻してくれた。
それは冷静な仕事ぶりに見えたが、どこか私を庇うような響きがあった。
途中、給仕の人が慌ててワゴンを切り返し、赤ワインのグラスが危うくテーブルに倒れそうになった。
私はすっとナプキンを添え、こぼれかけたワインの滴を受け止める。
「助かりました……!」
「いえ、私もよくやらかすので」
小さな笑いが広がり、緊張がひとつ解けた。
それだけのこと。
けれど、会話の温度が少し上がるのが分かった。
◆◆◆
「今宵はお時間をいただき、ありがとうございました」
「今日は楽ませてもらったよ。今後ともご贔屓に」
そう言い残して重役さんは先に退出していった。
部屋には私と桐生さんだけが残った。
桐生さんが少し優しい目になり、一言発する。
「……さっきの受け答え、悪くなかった」
ぽつりと落ちた言葉に、私は驚いて顔を上げる。
「え……私、そんなに上手くは……」
「重役は笑っていた。俺もあの人と知り合って長いが、あんなに和やかな姿は初めて見た」
「そう……ですか」
一呼吸置いて、桐生さんは視線を外し、小さく息を吐いた。
「……君は場を柔らかくする。不思議だな」
その声音は淡々としているのに、どこか意外そうで、私は胸が熱くなった。
部屋を出て廊下を並んで歩く。
私は一歩後ろに下がってしまいがちだったが、桐生さんが私に振り返る。
「歩調を合わせろ」
「……はい」
しばしの沈黙のあと、桐生さんがふっと口を開いた。
「……今日は助かった。ありがとう」
それだけ。
役員らしい硬い口調でもなく、ただの素直な言葉。
――それでも。
胸の奥がぽっと温かくなる。
「いえ……私こそ。もっと、お役に立てるように頑張ります」
――この人に、必要とされたい。
優秀な秘書としてだけじゃなくて、一人の人間として。
胸の奥に、かすかに芽生えた思いを抱えたまま、私は静かに桐生さんの隣を歩いていた。




