第10話 どん底から、ここまで来た私のストーリー
翌朝。
昨日よりも早く会社に着いた私は、まだ静かなフロアで机を拭いていた。
待機解除にしたコピー機の作動音だけが響いていた。
拭き上げた机に自分の影が落ちて、妙に背筋が伸びる。
――今日も、頑張らなきゃ。
そこへ桐生さんが入ってきて、無表情のまま一瞥をくれる。
「おはようございます!」
出社の挨拶をすると、ほんの一瞬だけ彼の目が細まった。
「おはよう。早く出社して準備とは、見上げたものだな」
「はい、今日も一日頑張ります」
笑顔で返す私に、桐生さんが意外なことを言ってきた。
「昨日はよく動けてたな」
「……え?」
「新人であれだけやれりゃ十分だ。だが、気を抜くなよ」
淡々とした声に、心の奥がじんわり温まった。
「は、はい」
昨日の不安と緊張が、少し和らいでいく。
◆◆◆
午後。
社内で起きたトラブルで、秘書課のオフィスの空気がざわついていた。
会議の資料データが誤って削除されるトラブルが発生。
取引先との打ち合わせに支障が出るかもしれない……。
社員たちの早口のやり取りが飛び交う。
オフィスに緊張が走る中、私の頭は冷静にファイルの順を追っていた。
――こういう時こそ、慌てないで。
慌ただしく席を立つ社員たちの間で、私は無意識にメモを見返した。
「あ、これじゃないかな」
数分後、別フォルダにバックアップした資料を見つけ出した。
「こちらのデータを使えば大丈夫です。会議までには印刷も間に合います」
声が少し震えたが、手は迷わなかった。
すると、心配してオフィスに来てくれた桐生さんが、私の後ろから覗きこみ、静かに頷く。
「……よくやったな。助かった」
低く淡々とした声。
聞き慣れているのに、心臓が跳ねた。
「――お役に立てて、うれしいです」
彼の口から出た“助かった”の響きが、じわりと胸の奥に沁みわたった。
◇ ◇ ◇
終業後。
帰り支度をしていると、桐生さんが無造作に声をかけてきた。
「有動、ちょっと付き合え」
思わぬ言葉にドキッとする。
「えっ……あ、はい!」
そのまま駅前の落ち着いたカフェへ。
黒いスーツ姿の桐生さんは、周囲の視線をさらうくらい絵になっていた。
私たちは、端のテーブル席に腰を下ろした。
彼は仕事の報告書を読みながら静かにコーヒーを飲む。
大理石のテーブル越しに見える桐生さんの横顔。
彼は内ポケットからペンを取り出し、報告書に迷いなく線を引く。
仕事の時の鋭い目つきと、無意識に見せる穏やかな表情のギャップに胸がざわつく。
――会話は少ないのに、不思議と居心地がいい。
「今日の対応、よかったぞ」
突然の言葉に、私は驚いて顔を上げる。
彼は視線を報告書に落としたままだ。
「短期間でここまでやれる新人はそういない」
「……ありがとうございます」
ボソボソと声が小さくなる。
顔が火照り、また俯いてしまう。
胸の奥が熱くて、視界がわずかに滲んだ。
◇ ◇ ◇
帰り道、夜の街は柔らかい光に包まれていた。
ビルの灯りとネオンが交差し、人波を縫って歩く。
並んでいるだけ。
手をつなぐわけでもない。
それでも桐生さんの隣を歩くだけで、世界が違って見える気がした。
「仕事には慣れてきたか?」
「えっ……な、何とか」
ぶっきらぼうな声なのに、気遣いが胸に刺さる。
「今日の君を見ていて思った。短期間でよくやってる」
「えっ……」
「昨日まではきつく当たってたかもしれん、すまんな」
「いえ、そんな……。これからも何かあれば遠慮なく言ってください」
「今後は俺も君に期待している。厳しいかもしれんが、付いてきてくれ」
――え? なんだか心がざわつく。
違う、告白じゃない。
でも……胸の鼓動が高鳴る気がした。
「はい、これからもよろしくお願いします」
桐生さんはその後、駅まで私をエスコートしてくれた。
◇ ◇ ◇
ネオンがまぶしく、多くの人が行き交う路地の影で、俺は立ち尽くしていた。
偶然見かけた元カノの姿。
ネオンの光に照らされた未春の横顔が、笑っているように見えた。
――よりによってライバル会社の御曹司、桐生尚也の隣とは――。
胸の奥で何かが崩れる音がした。
「くそっ……ヨリを戻すのは無理か」
もう一度名前を呼びたかった。
だが、声は喉で詰まり、足は動かない。
ネオンに照らされた未春は、まるで別世界の人間のように見えた。
彼女と別れてから、まだ一か月も経っていないというのに……
夜風が俺の声をさらい、未春と思しき姿は人波に消える。
――後悔しても、もう遅い。
◇ ◇ ◇
帰宅した私は、灯りをつけて着替えを済ませる。
洗面台に立ち、化粧を落とす時、鏡に映る自分の顔を見た。
頬が少し赤いのは、気のせいなんかじゃない。
――今日、あの人にたくさん褒められた。
それだけで胸がいっぱいになる。
「うん……もっと頑張ろう。あの人の隣にいて恥ずかしくないように」
明日が怖いだけじゃなく、楽しみにもなる。
――そんな気持ちになったのは、いつ以来だろう……。
そしてあの日、浩康に別れを言われた時。
今、私がこんな顔して生きてるなんて、想像すらできなかった……。
死ぬほど辛かったあの時から、やっとここまで来たんだ。
――もう振り返らない。前だけ見て生きていくんだ。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第一章――終わり。
けれど、私の物語はここから始まる。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第一章を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
皆さまにお願いがあります。
本作を読んで、つまらなければ☆1個で構いません。率直な意見で☆評価頂ければありがたいです。
皆さまの評価で、作者のモチベーションが上がります。
また、率直な感想をコメントにくだされば励みになります。
何も言われず読んでもらうより、全然うれしいです。
もっと読んでみたいと思ったら、ブックマークしてもらえるとありがたいです。
いいねはどちらでも結構です。
どうぞ、よろしくお願いします。




