第5話:指のないダンス
手を伸ばせば、届きそうだった。
でも俺は、その“指のない手”を握ることができなかった。
いや――握ってはいけないと、本能が叫んでいた。
それは、かつて俺が知っていたユイではない。
「踊ろう」と言いながら、彼女は静かにステップを踏んでいた。
指のない手を、まるで羽のようにひらひらと振りながら。
背景には音楽も鳴っていない。
だが彼女の足取りは、何かに合わせるようにリズミカルだった。
Chu-chu, yeah
Please me
Without you
頭の中で、あのメロディが勝手に鳴り響く。
それはまるで催眠のように、俺の足まで引きずっていく。
「ユイ……これは何なんだ……?」
「“選ばれた人”だけが踊れるの。真夜中のブギー」
彼女はそう言って微笑んだ。
その笑顔が、どこか誇らしげにさえ見えた。
「私、もう“音”になったの」
言葉の意味がわからないまま、俺は足元に目を落とした。
――そこには、床一面に“指”が落ちていた。
人の指。細くて、冷たそうで、何本も何本も。
中には子どもサイズのものまで混じっていた。
俺は思わず後ずさった。
ユイはそんな俺を見て、首をかしげた。
「大丈夫。あなたもすぐ慣れるよ」
そう言って、彼女は指のない手を振ると、空間がグニャリと歪んだ。
突然、あたりがクラブのような暗い照明に包まれた。
スポットライト。フロア。無数の人影。
彼らは踊っていた。
――いや、踊らされていた。
全員が笑顔。
でも、顔の下半分は裂けていて、笑っているというより引き攣っていた。
足は同じ動きを繰り返し、片方の腕は糸のような何かに吊られている。
その中央で、ユイが踊る。
優雅に、滑らかに。
まるで、ここが彼女の“舞台”だとでも言うように。
「ねえ、覚えてる? 中学の文化祭で踊った時のこと」
ユイが声をかけてきた。
確かに踊った。あの時も、ユイは笑っていた。
けれど――
「あの時のステージ、本当は間違ってたの」
ユイの声が、フロア全体に響き渡る。
「だって私、誰にも見られてなかった」
「誰も、私がいることに気づいてなかった」
――だから今、見ていて。
――今度こそ、ちゃんと見て。
ユイの体から、黒い羽根が広がる。
それは音を伴って空気を震わせる。
“音楽”が始まった。
バスドラムのような心音。
金属の軋むようなギター。
そして、女の子の笑い声が、何重にも重なる。
「踊って。踊ってくれなきゃ、全部元に戻らないんだから」
俺の足が勝手に動き出す。
そう、これは強制だ。自分の意思なんか、もう残っていない。
この“真夜中のブギー”は、儀式だ。
ユイの存在を、この世界に繋ぎとめるための。
俺の動きに合わせて、床の指たちがリズムを刻み始める。
まるで拍手のように、パチン、パチンと。
どこまでも続く音と、終わらないダンス。
まぶたの裏に、あの時のユイの涙が焼き付いて離れない。
「ねえ、気づいてた?
君が“気まぐれで無視した日”から、私は音になったんだよ」
踊るユイがそう言った。
その声は優しく、でも底知れぬ恨みを孕んでいた。
「指をなくしたのも、足を捧げたのも、
全部、君に見てほしかっただけなんだよ」
俺は、ようやく彼女の目を見ることができた。
そこにあったのは――怒りでも悲しみでもない。
「君と一緒に、踊っていたかっただけなの」
その瞬間、俺の手から指が落ちた。