第3話:ちぐはぐな祈り
目を開けた瞬間、世界が静まり返っていた。
耳鳴りが消えた後に残ったのは、誰かのかすれた鼻歌だった。
「Chu-chu, yeah… please me…」
そのメロディはどこか懐かしく、同時に背筋を這い上がるような不快感を伴っていた。
俺は見知らぬ部屋にいた。
蛍光灯のちらつく狭い空間、壁には無数のメッセージが書きなぐられていた。
『君は気づいた?』
『Without youは完成しない』
『ちぐはぐでも…つながってる』
その中に見覚えのある文字があった。
――ユイの筆跡だ。
「ユイ……いるのか?」
声は虚空に吸い込まれた。
足元にはスマホが落ちていた。画面には新着メッセージ。
『明日から平和なら、それでいいの?』
意味不明だった。だが、何かが引っかかる。
そのとき、扉の向こうから誰かが笑った。
「凸凹なコンビネーション?でも別に大丈夫さ、でしょ?」
少女の声。それは明らかに、ユイだった。
俺は意を決して扉を開けた。
そこには、ユイが立っていた――
いや、“ユイに似た何か”だった。
顔は笑っているのに、目が笑っていなかった。
身体は宙に数センチ浮いていて、足元の影がぐにゃりと広がっていた。
「私、今、すごく平和よ」
その声には喜びがなかった。
むしろ空虚だった。音だけを並べたような、機械音のような。
「ユイ…お前、どうなって……」
ユイの口元がひくりと歪んだ。
「ねえ、“君だけが守れるものがある”って、あれ、嘘でしょ?」
瞬間、周囲の空間がぐらりと揺れた。
部屋は崩れ、暗闇が迫る。
ユイの背中から黒い“羽根”のようなものが、ずるりと広がる。
――翼? いや、違う。それは“目”だった。
無数の目が俺を見つめている。冷たい、無関心な視線で。
「ねえ、“守って”って言ったよね?じゃあ、今度は私が守ってあげる」
次の瞬間、俺の背中にも、何かが生えた。
熱い。背骨を焼くような痛みが走る。
叫んでも、口からは音が出なかった。
「ようこそ、“祈りの部屋”へ。ここは祈る場所じゃないの、祈られる場所なの」
ユイが微笑んだ。
その顔は、もう完全に“人”ではなかった。
俺はただ、呆然と立ち尽くしていた。
震える心に、あのメロディが再び流れ込む。
Chu-chu, yeah…
Please me…
Without you…
――明日が、平和なら。
そんな願いは、もう叶わない。