中編
こちらは小説ではありません。小説を読みたい人は(以下略)
前編を見てない方はまず前編を見てからお願いします。
前編では、人を殺めた方法や背景によってその罪の大きさが変わることを説明しましたが、今回はその理由について考えていきます。
II,主観的苦痛と客観的苦痛
タイトルからいきなり訳のわからない単語を出しましたが、一旦置いておきましょう。
前編最後の、人を殺めた方法や背景によって罪が変わる理由は、ずばり「苦痛」の違いにより生じるものと私は考えます。さらに、その「苦痛」も大きく二つの苦痛に大別できると考えています。それがタイトルにもある、主観的苦痛と客観的苦痛です。
例えば、前編の話のような状況が目の前で起こったとして、あなたはどう感じるでしょうか。当然、1人の人間が死んでいくわけですから、見てられるものではないでしょう。しかも、それがただの人間ではなく、親友だったり家族だったりしたら。その苦痛は計り知れないものでしょう。
しかしこの例で言えば、実際に刃物等で痛めつけられているのはあなた自身ではありません。あくまでも目の前の人が痛めつけられているだけで、あなたからすればその状況を見ているだけにすぎないのです。でも、それを見ることによって苦痛を感じる。私はこのように、他者が被っている苦痛によって生じる自分自身への苦痛を、客観的苦痛と呼んでいます。もっと分かりやすい例を挙げるならば、テレビなどで出てくる事故のニュースを見ているときや、職場の人がパワハラを受けている時、サスペンスドラマの殺人シーンなどでしょうか。
この客観的苦痛とは逆に、自分自身が直接被る苦痛を主観的苦痛と私は呼んでいます。これはそこまで説明するまでもないでしょう。
ではこの二つの苦痛、一体どのようにして殺人の罪の大きさに関わってくるのでしょうか。私は最初に挙げた客観的苦痛の大きさによるものと考えています。
なぜなら、殺人という行為に主観的苦痛は存在しないと言えるからです。もし仮に、あなたが刃物で刺されたとしましょう。とっても痛いでしょうし、命の危険もあります。感染症や神経を痛めて後遺症が残ったりでもしたら、その人の苦痛もより大きくなるに違いありません。
ただ、死んでしまったらどうなるでしょうか。死んでしまったら、その人にそれ以上の苦痛が加わることはありません。刺されて死んでしまう、このときの一瞬の苦痛で刺された人のいわゆる主観的苦痛というのは終わってしまうのです。
となると、死んだ後になって、または死にゆく過程の中で生じた客観的苦痛だけは残ることになります。通常の殺人罪よりも刑が重たいとされている放火殺人で言えば、じっくり火に焼かれ苦しみながら他の家も巻き添えにして死んでいった、という大きな客観的苦痛が生まれると表現できますし、嘱託殺人であれば死にたいという願望を叶えたことによる結果、つまりその人自身の願いを叶えたという結果からそこまで大きくない客観的苦痛が生まれたという風に、他者から見た苦痛の大きさによって罪の重さが変わると考えているのです。理由は先述した通り、殺人という行為には主観的苦痛は生じません。生じないというより、この世に存在しないという表現の方がより具体的でしょうか。
今回は死に伴って生じる二つの「苦痛」について説明しましたが、次回の後編ではその二つの苦痛の違いにより起こる悲劇について、昨今話題となっている「無敵の人」についても触れながら考えていきます。
後編へつづく!