落下
『二度言わせるな……定めだからだ。我らは八十を保護する。お前から八十の気配がする。だからお前も保護するだけにすぎん。小僧という人間を守っているわけではない』
「八十……。森の黒いやつのことか……。なんであんな化物を保護するんだ?」
この問いに狼の化獣は答えなかった。答えるつもりがないのだろう。その後も沈黙が続く。
長い沈黙に化獣の意思を感じた牙禅は質問を変える。
「なあ、お前の言う心声ってやつは誰でも急に開いたりできるものなのか」
『普通の人間には無理だろうな。多少混じっていても我らの声が聞こえ対話できるものはいない。ただ異能を持つほど濃い血が流れているもので心声が開いた人間は過去に何人もいた』
狼の化獣は徐々に走る速度を下げゆっくりと止まる。
いつの間にか森を抜けたらしい。目の前の視界が開けており、空はほんのり青白くまもなく夜が明けることを示している。
しかしその先は崖。かなり高く落ちれば確実に死が待っている。崖下から舞い上がる風が強く牙禅と狼の化獣の毛を揺らした。
『そろそろ口を噤め。ここから先はお前の脚では往けぬ。我が背に乗ることを許す。ここを下る』
狼の化獣がそう言うなり身体が二回りほど大きく肥大した。不思議なことだが異能のある世界、牙禅はそういうものだと無理やり思い込む。
「……本気か?かなり高いぞ」
『臆したか?』
「はっ。……舐めんな」
牙禅はそういうと一度深く深呼吸し、身体の大きくなった獣の化獣に跨った。
化獣の身体は筋肉と骨でごつごつしており硬く、黒い毛もごわごわで乗り心地は良いとは言えない。
『姿勢を下げてろ……といってももうしていたか』
狼の化獣は牙禅に声をかけるが牙禅はすでに姿勢を低くしており、頭と身体を化獣に沿わせるような姿勢でいた。
『往くぞ』
狼の化獣は牙禅の返事を待たず四肢を動かし、崖淵から崖下へと落下するように下る、いや落ちる。
「おいっっこれ落ちてねぇか?!」
思っていたよりも降下速度が早いことに焦りを覚えた牙禅は思わず声を上げるが、狼の化獣は反応しない。
ところどころ四肢で崖を蹴る感触があるため意思を持って下っていることは確かだろう。しかしふわりとした浮遊感が時々感じられ気持ち悪さを感じる。
はるか下に見えていた岩肌や木々が近づいてきたが、急に降下中の先に淵が青白く光る円が現れた。円の中は波状に波打っており、薄灰色に曇っている。
「あれは――」
ものすごい速さで崖を下る牙禅と狼の化獣はその円に吸い込まれるように通り抜ける。
波上の円に触れると同時にふわりと小さな光の粒が円の淵から溢れ出て、牙禅と狼の化獣は崖から姿を消した。
――――――――――
『さっさと降りろ』
狼の化獣の声が牙禅の意識を現実に引き戻す。
「あ……?」
牙禅が最後に見たのは円だった。崖の下に突然現れた円の中に入った後、眩い光に一瞬包まれたはずだった。
「ここは……?」
一瞬死んで天に召されたのかと思った牙禅は、天国というには少々殺風景な風景を見て違うことに気付く。
巨大な岩がいくつもごろごろと乱雑に置かれている。近くには小川も流れているらしく、川のせせらぎの音が耳に心地良い。朝方なのは変わらず空が薄っすら青いままだ。
森の中なのは間違いないだろうが、雰囲気が牙禅のいた集落周辺とは異なる。
暗さや陰気さを感じない。
辺りに刺客の気配がないことを確かめた牙禅はゆっくり歩みを進め辺りを見回す。
静かな景色はどこまでも続いているようだ。
一歩ずつ。巨大な岩によじ登り先がどうなっているか確認しようとする。
よじ登った先には浅い水辺があった。
水面は風により僅かに揺らいでいる。
そしてその水面の中央近くに、誰かがいるのが目に入った。
衣類を着たまま水浴びでもしていたのか、着衣が肌に張り付き身体の影を浮き立たせる。
華奢に見える腕や脚。腰先まで伸びた長い銀髪。後ろ姿しか見えないが女性のように見える。
しばらく動いていないのか波紋はなくそこにいるのが当たり前かのような存在に思えた。
ただ静かに見守る牙禅の気配を感じたのか、その銀髪の人物はゆっくり牙禅の方への振り返る。
伏し目からその人物の眼が牙禅を捉えた。灰がかった薄い水色の瞳。瞳の奥にはほんのり輝きを秘めている。化獣と同じ――――しかも位と価値の高い瞳だ。
小さな鼻に赤みを帯びたふっくらとした唇。牙禅は思い出していた。集落に送られてくる異訪人の中でもただ1人、とびきり美人だった人を。その女性は繁殖用ではなく偉い要人が買うと聞き、そして集落から去った。その時の初めて覚えた惚ける感情とよく似たものが込み上げてきた。ちゃぷ……と水面が音と共に揺れる。
牙禅の耳に小川の音はもう届いていない。
全身の神経と意識が目の前の小さな空間を注視している。
朝日の光が木々の隙間から顔を覗かせ水面と銀髪の女性を照らす。きらきらと反射する光と揺れる水の影が神秘さをより際立たせていた。
「初めて……人が訪れたな」
女が牙禅を見ながら口を開く。牙禅ははっとして女の顔を改めて見た。
ただこちらを見ているだけなのに三白眼の瞳に強く引き付けられる。
「貴方……名は?」
「……牙禅、だ……」
岩場を降りて水面に近づいた牙禅から出たのは小さくつぶやくような声だった。
女性はほんの少し下瞼と口角を上げ微笑む。
「牙禅……貴方の翡翠色の眼。とっても綺麗。私と同じ……。」
牙禅の瞳はいつの間にか翡翠色が定着し、もう変化することはない。
女性は水面から陸に上がる。濡れた状態を一切気にする素振りなく、牙禅の近くまでやってきた。
「翼音と呼んでくれ」
再度微笑む翼音。
牙禅は心臓の鼓動が早くなる。
「あ、あぁ……」
牙禅は面白味もない単純な返事をすることしかできなかった。
しかし惚ける心も翼音の行動で現実に戻される。
翼音の濡れた衣類は肌に張り付いており、身体や乳房の線が丸わかり状態だった。
しかし当の本人は牙禅を前にしても隠すことをせず堂々としている。それどころかそのまま狼の化獣がいた場所へ岩場を辿って戻ろうとしていた。
流石にそのままにするわけにはいかないと思ったのか、牙禅は着ていた外套を脱ぎ翼音の背から身体を覆うようにかけた。
翼音は一瞬止まり目を開くも、牙禅に対し振り向くと頭を傾げていた。
「そのままは良くないだろ」
何の疑問も感じていなさそうな翼音に対し牙禅は衝撃を受けたが、冷静に伝えた。
「なぜ?」
「なぜって……気にならないのか?」
「何が?」
翼音よりも背が高い牙禅は翼音を見下ろす形になる。牙禅から見ると翼音の胸の谷間や形がくっきりと見えているのだ。
しかし翼音は牙禅が指摘しても動じない。
牙禅は翼音の反応に違和感を感じた。
「……風邪を引く。羽織ってろ」
伝わっていないと判断した牙禅は言い方を変えた。
「あぁ……そうか。ありがとう。私の羽織は向こうに置いたままだったんだ。助かる」
翼音は牙禅の外套に腕を通し岩場を登っていく。しかし牙禅に合わせた外套は長く、翼音が着るとぎりぎり引きずる形となる。翼音は足元を見て邪魔になる裾をたくし上げて軽く飛び岩場の向こうへと移動した。
牙禅は翼音の最初の神秘さと話した印象や行動が違いすぎることに驚きつつも、ここには水面以外に特に何もないことを確認し後を追う。
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