第二話(2)
「あ、あ、あのっ。すみすみ、すみません!」
わたしは慌てて男の子を引き剥がす。家族以外のヒトとこんな挨拶をしたことがないので、わたしはとても焦ってしまった。
改めて近くで見ると、男の子はわたしと同じくらいの年頃で、少し尖った耳をしたヒトだった。
この世界では珍しい、獣人の血が混じっていない同じ『人間』かもしれないと思う。
黒いツンツンとした髪がヤンチャな感じでかっこいい男の子だ。
わたしはちょっとドキドキしながら、男の子の肩を優しく叩き落ち着かせる。彼はまだ涙目でグスグスと鼻を鳴らしていたけど、段々と会話ができるようになってきた。
「ヒトに会えたのは久しぶりなんだ」
彼はポツポツと身の上話を始める。
「ずっと森の中を行ったり来たりしていて」
「いつからですか?」
「さあ。覚えていない」
ずいぶん不安そうな顔をしていたから、よっぽど長く迷子になっていたんだろう。一晩以上も彷徨うことになったら、わたしもこのくらい取り乱すかもしれない。
「わたしも迷子になっているんです」
「そうなのか! 一緒だな!」
「はい。だからあんまりお役に立てないんですが……」
先ほどまでの泣き顔から打って変わって、ニカッと満面の笑みを浮かべる彼。助けに来たわけでもないので、あまり期待をさせても申し訳ないと思ったのだけど、彼はわたしと話すことでみるみる元気を取り戻していった。
「俺様の名前はイーノス。よろしくな!」
「わたしはシュクイと言います。よろしくお願いします……」
イーノスさんは旅人で、かなり昔からあてもなく旅を続けているのだそう。ずっと家にこもっていたわたしとはかなり違う経歴だ。同い年くらいなのにスゴいな、と思う。
「わたしは、今日から旅を始めた新人です。隣町を目指していたんですけど、銀杏の木を見ようと思って脇道に入りました。そしたら迷って出られなくなったんです」
「ああ、なるほど。よくある話だな!」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。旅をしていると、よくあることだぞ」
そうなんだ。旅をするって大変……。
フラグが手元にいれば、『そんなわけないだろう!』などと突っ込みを入れてくれるような気がしたけど、今はいない。
「仲間ともはぐれてしまって」
「そうなんだ。奇遇だな、俺様もだ」
どんなヒトですか、と尋ねようとしてやめた。わたしのことも聴かれて、仲間が喋る盾であることを説明するのが大変そうだと思ったからだ。
わたしたちはとりとめのない話を切り上げて、元の道に戻る策を考え始める。
「目印をつけて歩いたらどうでしょう」
わたしはそう提案して、近くに落ちていた枝を広い、地面にバツを描いた。
十歩歩くごとにバツを描き、さっき描いた印を振り返って見る。そうやって、間違いなく一本道をまっすぐ歩いていることを確認していたのだけど。
「戻ってきたな」
「戻ってきましたね」
わたしたちは元の銀杏の根本にたどり着き、途方に暮れた。
「でも、道に印がついていませんよ」
「本当だ」
わたしは銀杏の幹にも印をつけていた。その印を背にしたとき、右手の方向にある道に向けて歩いたはずだ。
わたしは幹の周りをぐるぐる周り、印がどこにもないことを確認する。そして幹の左右に道が伸びている位置取りに立ち、改めて印を入れる。
「もう一度歩きましょう」
わたしたちは再び印をつけながら歩いた。すると今度は、既に印がある道に辿り着いた。
「あれ? 印がありますね」
「樹にもあるぞ」
言われた通り、そこには一番始めにつけた斜めの傷がある。
先ほどつけた傷は、まっすぐ上から下に伸ばした気がする。狙ったわけじゃないから、確証はないのだけど。
わたしは斜めの傷に今度は反対から傷をつけ、バツになるようにした。そして印がある道のほうにももう一つバツを描きながら歩いていく。
そしてまた傷が一本しかない銀杏の樹に辿り着いた。
その傷は、上から下にまっすぐ伸びた傷であり、わたしはイーノスさんに向き合って言った。
「もしかしてなんですが、こちらの樹はイーノスさんが登っていた樹なんじゃないですか」
「ああ、うん。そうかも」
「もしかして、わたしたちは今、わたしの登った樹とあなたの登った樹の間をぐるぐる回っているんでしょうか」
「ああ、うん。そうかも」
「いつからそうなっているのかはわかりませんが、今はそうなっている。二本の銀杏の樹から延びる道はもう一方の銀杏の樹に繋がっていて、それ以外の場所には行けなくなっている……」
わたしたちは試しに、道を外れてみることにした。すすきがぼうぼうに生えている道を無理矢理進み、違う場所に出られないか挑戦してみた。
結果は駄目だった。わたしたちは再び銀杏の樹にしか繋がらない道に出てしまった。
「うーん……」
わたしは頭を抱える。よくわからないけど、わたしたちが方向音痴だから迷っているわけじゃないような気がしてきた。
なにか不思議な力で、ここに閉じ込められている。
なんでだろう。フラグがいたらなにかを教えてくれる気もするんだけど、彼はどこにもいない。
腕を組み悩むわたしを、イーノスさんはのんきな表情で見守っていた。このヒトは、ひとりじゃなければ不安じゃないのかな。迷子になること自体は慣れているということなんだろうか……。
イーノスさんは急になにかを思い付いたように、樹の幹を指差して口を開く。
「こっちが俺様の登っていたほうの樹か?」
「はい。たぶん……」
上から下にまっすぐ伸びた傷だ。わたしが二本目の銀杏につけた傷だから、わたしが落下した樹とは違うはず。
「お前が持っているその剣を貸してくれないか」
「えっ、これですか?」
わたしは驚いた。アスンシオンは落とさずにちゃんと背負っているけど、これを貸すなんて考えたこともなかった。フラグは大切なアスンシオンを他人に貸すなんて許してくれないだろうし……。
「はい、いいですよ」
まあいいか、フラグはいないんだし。黙っていれば怒られないよね。
わたしは背負っていた鞘ごと、アスンシオンをイーノスさんに手渡す。
「何をするんですか」
わたしがそう尋ねると、彼はニカッと八重歯を見せて笑った。
「俺様は、この剣の使い方を知っている。これは何でも切れる剣なんだ」
「えっ、そうなんですか?」
彼は自信たっぷりに頷き、慣れた様子で鞘から剣を抜き放つ。
彼は柄を両手でしっかり握り、柄の真ん中にある丸い宝石の装飾を額に近付けて、目を閉じる。
それは祈りを捧げるようなポーズだった。
「いいか、シュクイ。イメージを伝えるんだ。この剣は二つにわかれる。何でも切れる剣と、何も切れない剣」
イーノスさんはそう呟くと、両手を左右に引いた。
そのとき、信じられないことが起こる。
イーノスさんは両手に違う色の剣を持っていた。
右手にはまばゆく輝く虹色の剣。左手には空間が歪んだようにぐにゃぐにゃした真っ黒な剣。
「この剣は、俺様のイメージでなんでもできる。あってはならない二本の樹の、一本を斬ってしまうことも」
よく見ておけよ。そう口にしたイーノスさんは、虹色の剣を銀杏に向けて振るった。
当たるような距離じゃないのに。銀杏の樹はてっぺんから真っ二つに切り裂かれ、先から徐々に粉のようになって消えていく。
わたしは呆気にとられてそれを眺めていた。
眺めているうちに、段々と周りが光に飲まれていき、真っ白になる。
一体なにが起こったのだろう。理解できないままにして、わたしの体はふわりと浮き上がる。
暖かい、良い気持ちで意識を飛ばそうとした瞬間、全身に鋭い痛みを覚えた。
「いたた、いった~!」
「大丈夫か?!」
聞きなれた声がする。痛みに身をねじり、ギュッとつむっていた目を開けると、目の前に怖い獣の顔があった。
「だから危ないと言っただろう! 骨は折れていないか? 大丈夫か?」
「あ、うん。大丈夫……」
わたしは頭の中をハテナでいっぱいにしながら、周りを見た。
黄色い銀杏の葉がたくさん落ちている。枝も何本か折れている。見上げると、わたしが落ちてきたような隙間が枝葉の屋根のなかにぽっかりと開いていた。
「えっと、わたし、なにをしてたんだっけ」
「高いところに登って道を探すと言っていただろう」
「うん。道を見つけて、足を滑らせて落ちて、それでどうなったんだっけ」
「いま落ちてきたところだぞ。大丈夫か、頭を打って記憶を失くしたか?」
「ううん。大丈夫……」
わたしは夢を見ていたんだろうか。落ちたショックで? でも、落ちる直前にもう一本の銀杏の樹を見かけたはずだけど……どこから夢だったんだろう。
体が頑丈なのが取り柄のわたしは、痛みが薄まるとすぐに立ち上がることができた。
日の位置は確かに、わたしが木登りを断行したときからほとんど変わっていない。
「やっぱりあっちに道が見えたよ」
「そうか。もう一度向かってみるか?」
「うん。そうする」
何故だかわたしは、もう迷うことがないと感じていた。迷っていた原因はわからないけど、その原因は取り除かれたのだと確信していた。
予想通りにわたしは、もとの道に戻ることができる。
「やったー! 戻れたー」
「全く。ひどい方向音痴だな、お前は」
「もう。戻れたんだから、良いじゃない」
わたしはホッとしたのと同時に、夢のことをすっかり忘れてしまう。
フラグに説明するのが面倒だったし、変な夢を見てとバカにされるかもしれないと思ったからだ。
「今から急いでいけば、暗くなる前に到着できるかな」
「急げば、恐らくな」
「じゃあ、思いきって走っていくよ~」
元気なだけが取り柄のわたし。激しく振り回されることにまた文句を言っているフラグを無視して、車輪の後をたどってわたしはひたすら街道を走って、走った。