第一話(1)
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窓から差し込む優しい光。
ふわりと鼻を撫でる香ばしい薫り。
目の前でおいしそうに膨らんだ黄色いふわふわの山に、わたしはスプーンですくった赤い色をのせた。
それはトマトから作られた真っ赤なソース。それで笑顔のマークを描いて、わたしは満足してスプーンを脇に置く。
手を重ね、今日もまたこの瞬間を迎えられたことに感謝を捧げてから、わたしは元気よく宣言した。
「いただきまーす!」
今日のオムレツの出来は上々だった。卵を贅沢によっつも使って、丁寧に混ぜてからふわふわに焼いた。
改めて手に取ったスプーンをそれに差し込むと、中からトロトロの卵が流れ出て食欲をそそる。
良いバランスでトマトソースと卵を絡めて、スプーンを口に運んだ。
「おいし~い」
わたしはこの瞬間が大好きだった。こんな美味しいオムレツを毎日食べられるわたしは幸せものだと思っていた。
夢中になって食べていると、向かいの席から低い声が聞こえた。
「なあ、シュクイ……」
「どうしたの? フラグ。あなたも食べたい?」
「いや、違う」
彼はわたしの質問を即座に否定してから、モゴモゴと歯切れ悪く話を続ける。
「その、今日の予定を聞いてもいいか……?」
「えっ、今日の予定?」
そうだなあ、と呟きながらわたしは部屋の中を見渡した。
ダイニングの先に広がるリビングには、古びた家具がポツポツと並ぶ。くたびれた絨毯の隅がちょっと捲れ上がっているのは、さっき掃除をしたせいだろうか。
「掃除はもう終わったから、買い出しにでも行こうかなあ」
目を戻した先にはキッチンがある。卵をよっつも使ってしまったから、もう残りがない。トマトソースももうすぐなくなってしまうし、追加で買っておいた方がいいかもしれない。
あれこれ考えていると、向かいの席から大きなため息が聞こえてくる。
「どうしたの? なにか悩みごと?」
「いや、なんでもない……」
諦めたようにそう言うので、わたしは深く気にせず楽しい食事を再開することにした。
わたしの名前はシュクイという。歳はだいたい十六歳くらいの人間の女の子だ。
ちょっと薄暗くて古めかしいけど、素敵な雰囲気のお屋敷にひとりで住んでいる。
向かいに座っているのは、わたしの相棒のフラグ。彼は気難しいおじいちゃんのような話し方をするけど、何歳なのかはわからない。
というか、彼は向かいに座っているわけじゃない。人用に作られた椅子の上に“立て掛けられている”。いつも同じ表情、口をガバッと開けた怖い獣の顔がついている金属製の盾が、彼の全容だ。
彼と出会ったのはだいたい一年くらい前。家の掃除をしていたときに見つけた。たぶん、発掘のお仕事をしているおとうさんが持ち帰ったもののひとつなんだろう。
しゃべる盾なんて見たことがなかったから、はじめのうちは物珍しくて、彼の話を色々聞いた。
遥か昔に大きな戦いがあって、彼はその時に活躍した盾なんだそうだ。本名は『フラグなんとか』というらしいんだけど、長いので忘れてしまった。
重要な話をしているのかもしれないけど、もうその戦争は終わってしまったわけだし、世界は至って平和なわけだから、聞いても仕方がないかなと思って今は話を聞き流している。
よく考えてみれば、えらい学者さんと一緒に仕事をしているはずのおとうさんが、我が家に長らく置き去りにしているものだ。そこまで重要なものであるはずがない。
「ごちそうさまでした!」
食事を終えて、お皿を片付けて、わたしは先ほど語った予定に取りかかろうと考える。
玄関を出て、前庭にたくさん積んである薪を六本ずつ束にして蔓で括っていく。
三束くらいあればいいかな。欲しいものを指折り数えながら、わたしはそう判断する。
これはわたしが上手にできる唯一の仕事であって、おとうさんが教えてくれたことだ。
近くにある町は物々交換が主流だから、何か価値のある物を提供しないと生活用品が手に入らない。
わたしは不器用だからお裁縫はできないし、動物や植物のお世話も下手だったから、薪割りが一番上手にできた。
三束を背負子にくくりつけて、それをよいしょと背負い、出掛けようとする。
「あっ、忘れてた」
わたしは慌ててダイニングに戻り、フラグを腕に取り付けた。
「私を忘れて出掛けようとしたな」
「まさか!」
わたしはあははと明るく笑ってから、玄関の掃除道具置き場からもうひとつの忘れ物を抜き出して、肩に引っ掛ける。
「この頃は多少物騒になったと、町の者から聞いただろう。私とアスンシオンを必ず携帯するのだぞ」
「はーい、わかってます」
一度か二度、フラグを忘れて町へ出掛けたことがあるけど、その日は一日中ヘソを曲げて大変だった。
ヘソを曲げるとこのおじいちゃんは、ずっと小言を言い続ける。小言を聞いていると眠たくなるので、そうするとまた違う小言が増えて終わりがない。
だからできる限り彼の言う通りにしようと、わたしは心に決めている。
「いい天気だねー」
「そうだな」
この日は快晴だった。この頃はずっと快晴で、秋にしては暑いくらいの日が続いている。寒いよりもポカポカした日の方が好きなので、わたしは今日もご機嫌に街道を下っていく。
隣町はエフィというところで、この街道をまっすぐ下って十分くらいの近さにある。街道には道に沿って銀杏の並木があってとてもきれいだ。
暖かい日が続いたのでまだまだ緑色が多いのだけど、以前通ったときに比べて黄色に色づいた葉が増えてきた気もする。
そんな並木の中で、一本だけ見事に黄色に色づいた木があり、わたしは思わず足を止めた。
「うわぁ、すごくきれいだね~」
それはこの辺りの木で一番の大きさを誇るものだった。家からも見えるくらいに大きな木なので、遠目にもすでに目立っていた。
「先週はまだ緑色だった気がするが」
「一気に色が変わったんだ。すてきだねぇ」
山状に伸びた枝葉の隙間から、太陽の光がこぼれている。キラキラ光っているようにも見える大木に、わたしはしばらく言葉を失って見入っていた。
「あれ?」
「どうした、シュクイ」
「何か動いたような……」
わたしは一本の枝に焦点を絞り、じっと見つめる。
葉とは違う形のものがそこにはあり、確かに動いている。
それはリスか何かに見えたのだけど、リスにしては少し大きいような気がする。色が銀杏の葉と全く一緒という動物を見たのも始めてで、なんだか不思議な気がした。
「あっ、こっちを見たよ!」
真っ赤な点が三つ、こちらを向いている。二つの目と、額に赤い模様があるみたいだ。不思議な動物はしばらくこちらを見ていたけど、突然スルスルと幹を伝って下に降りてくる。
わたしの頭の一個分離れた高さまで近付いてきたその動物は、細い枝にちょこんとお座りして、首を傾げてきた。
「か、かわ、かわかわかわいい!」
わたしは思わずそう叫ぶ。驚いて逃げちゃうかもしれないと思ったけど、叫びたい衝動を抑えられなかった。
「フラグ! フラグ! 見て見て! かわいい!」
「落ち着け、落ち着け、わかったから」
ピョンピョン跳ねるわたしと一緒に揺らされて、フラグは途切れ途切れになりながら、その動物の観察結果を伝えてくれる。
「ふむ。リビットという生き物に似ているな。このような毛色の個体は見たことがないが……」
「見て見て、尻尾がたくさんあるよ。モフモフだねぇ」
「なんだか妙な生き物だな。もしかすると、妖精かもしれんな」
「妖精?」
「うむ。妖精とは、古い植物に宿った魂が、とあるきっかけで命を取り戻したものをいう。出自が普通の生命と異なることから、『生命体』ではなく『再生体』と呼び、区別するべきだという学者もいるが……」
「へぇ~あなた銀杏の妖精さんなんだ。すてきだねぇ」
「こら、これは憶測だぞ。話をちゃんと聞け」
「銀杏ちゃんって呼ぼうかなぁ。かわいいね、銀杏ちゃん」
銀杏の妖精さんはわたしの言葉に反応して、再び首を傾げる。
「きゃー! かわいい! かわいい! かわいい!」
「こらシュクイ! 落ち着け! 揺らすな!」
「どうしたの? なにか欲しいのかな?」
その子はなんだか物欲しげな表情でわたしを見つめている気がする。時折フンフンとにおいを嗅ぐ仕草もしている。
「お腹がすいているの?」
そう問いかけると、妖精さんはパッと瞳を輝かせたような気がした。
「フラグ、この子お腹がすいているみたい」
「本当か? 妖精は腹など空かんぞ。まあ、食い意地の張った再生体も居なくはないとは思うが……」
「今から町へ買い出しに行くの。あなたも行く?」
銀杏はコクコクと頷き、わたしの肩に飛び乗ってくる。
「わあ、賢い子だね。ヒトの言葉がわかるみたい」
「そんな馬鹿な。小動物の妖精にそんな知識はないはずだ」
「フラグにもわからないことはあるんだよ、きっと」
フラグはまだ何かをグズグズ言っていたけど、わたしは聞き流して歩みを再開した。
銀杏はわたしの肩でお利口にしていて、時折三本あるモフモフの尻尾が後頭部を撫でてくる。そのくすぐったい感触を楽しみながら、わたしは隣町の門をくぐった。
エフィの町は小さな町だ。主にフェーレースとかウォルレースとよばれる猫獣人、犬獣人さんが住んでいて、“人間”と呼ばれるわたしのような丸い耳のヒトはほとんどいない。
わたしが向かったのはマーケットと呼ばれている場所。そこでは、町の人たちがそれぞれ食材や生活雑貨を絨毯の上に広げ、お客さんと商品を交換したりしている。
結局わたしは三束の薪を、バゲット三本と卵六つ、トマトソース一瓶と交換することになった。
「食いしん坊だねぇ」
トマトソースを少し塗ってあげたバゲットを、ペロリと一本平らげてしまった銀杏。
「そんなもの、食べさせて大丈夫か?」
「大丈夫そうだよ。まだ食べるみたい」
「えぇ……? 嘘だろう」
彼は薪束がなくなった背負子に乗って、体長と同じくらいあるバゲットをもう一本かじり始めている。食べたものは、体のどこに消えてしまっているのだろう。
もう少し食べ物を買ってあげた方が良かったかな。あっという間にバゲット三本が無くなってしまった。彼はまだ食べたそうだったけど、もう食べるものは生卵しかない。さすがに生卵を食べるとは思えなかったので、「ごめんね。食べるものはもうないの」と謝った。
わたしのその言葉に、銀杏は静かに頷く。そして出会った場所に近付いた頃、背負子を降りて駆けて行ってしまった。
「ああ、行っちゃった」
「食うだけ食って、礼もなしとはけしからんやつだ」
「また会えるかもしれないよ」
すぐに見えなくなってしまった銀杏に手を振って、わたしは帰り道に足を戻す。
銀杏が居なくなった道のりはちょっとだけつまらなくて、すっかり軽くなってしまった背負子が寂しさを助長していた。
何か面白いことはないかな、なんて思って周りを眺める。銀杏並木の向こうには小さな山があって、葉っぱの色がポツポツと赤みを帯びている。
「あれ? 何だろう。あの黒いところ」
「山火事でもあったんじゃないか」
山の中腹からふもとにかけて、黒ずんだ線がうねうねと引かれていた。山火事と言われたらたしかにそうかもしれないけど、さっき通ったときにあんなものがあったかな。
気になったわたしは、少し道を外れてそちらのほうに行ってみることにした。