EP 53
「杏の家柄や杏の功績なんて、これっぽっちも調べてないよ。口ではそう言ってもね。俺の伯父は、そういう人なんだ。騙されてるよ」
オフィスの暗闇に押しつぶされそうになる。こんな風に何かで揉めたり仕事がうまくいかなかったりした時には、壱花に会いたくて仕方がなくなってくる。壱花をこの腕に抱き締めるだけで、暗い気持ちは吹き飛んでいき、心底癒されるというのに。
(そんな時、壱花は背中をさすってくれるんだ。それもこの上なく優しくね。ああ、もう帰りたい。壱花、君のところへ)
だが、帰れない。杏が矢継ぎ早に言葉を繰り出してくる。
「騙されていたとしても別に良い! とにかく離婚してくれればいいのよ! 私、ジェインのこと諦め切れなかった。好きなの、好きなのよ!」
「……杏、悪いけど俺は壱花ちゃんを愛しているんだよ」
「なんであんな子っ! 顔も身体も頭も大したことないじゃない!」
「杏」
嗜めるように言った声音が、重かった。
「もし万が一俺が壱花と離婚したとしても、君と結婚することは一生ないよ」
「そんなのわからないじゃない。私のこと、嫌いじゃないでしょ? だったら一緒にいれば好きになるかもしれない」
「ううん、わかるよ。君は俺の大切な人を貶めることを言った。壱花の外見や頭脳のことを言っていたね。けれど、壱花の素晴らしいところはそこじゃない。心なんだ」
杏はいつの間にか涙を零していた。細く長い指で、それを掬っていく。
「君も壱花を見ていればわかると思うよ。彼女は他人への慈しみで満ち溢れているんだ。一緒にいて、幸せになれる存在なんだ。そんな人、他には居ない。唯一無二なんだよ。俺は壱花を失ったら……」
ふと微笑を浮かべた。
「きっと寂しくて寂しくて死んじゃうよ」
涙を拭いながら、杏は言った。
「私、諦めないから」
くるりと背を向け、廊下を歩いていった。冷たい言葉は暗いオフィスをさらに暗いものにしていった。
(帰ろう、壱花ちゃんのもとへ)
まさかこの後、4人が揃う修羅場が待っているとは知らずに、ジェインは揺れる心ごと書類にカバンを詰め込んだ。




