女王さま
道は定められていると、あたしは思う。巻物のように長い筒となって地球図書館の日本ブースに収納された、ちっぽけなあたしの人生。それをゆっくりと読み進めていくことで、少しずつ老いていくんだと、あたしは思う。
だから、「あのとき、ああしていれば」という仮説を、あたしは基本的に信じない。巻物は戻せない。あたしの人生は、「今、ここ」以外に何もない。だからナオと会ったのも、定められた必然だと思う、んだけど……。
ナオは赤くなったあれを直立させて椅子に座っている。手首も足首も脚足と結ばれているから、そのまま立つと椅子人間みたいになって気持ちが悪い。あたしが手を叩くと、彼は声を漏らしてこちらに首を向けた。今日の方向は当たっていた。アイマスクで目が見えないので、当たっている時と、そうでない時があるのだ。あたしはご褒美として、舐めていたキャンディーを彼の口に入れてやる。
「終わり。あたし、三限あるから」
解かれたナオはマスクを外し、切ない顔をしてあたしを見上げた。焦茶色のやわらかな髪が窓から差す陽光に当たって干し草のように光っている。リブニットとショートパンツを身につけ、ジャケットを羽織ってもう一度振り返ると、彼はずっとこちらを見ていた様子。慌てて目を逸らした彼は、特別顔がいいとか、体がいいわけではないのだが、少し形が異なる左右の目と賢そうな薄い唇が、あたしをそそる。
「また来てもいい?」
「またっていつ?」素早く尋ね返すと、
「うーん、今日とか」
「今日はサークルだから無理」
「じゃあ明日」
「明日はバイトだから無理」
「明後日とか」
「あたしが来いと言った時に来て」
ナオは頷いてあたしを抱きしめた。情緒的な振る舞いが好きではないあたしは、抱かれたまま腕時計を眺める。全てのことには意味がある。けれどもナオとしていることに、意味を見出すことは難しい。あたしにとって彼とは、いても、いなくても、変わらない存在だからだ。生産性がないのだ。だから恋も生まれない。熱帯魚でも飼うかのように、あたしはナオを飼っている。ナオは黙って飼われていて、「今は付き合う気にはなれない。もうちょっと待って、それでも好きだったらまた告白してほしい」と言ったあたしを、今でもばかみたいに信じているのだ。そんなわけ、あるか。こういうふうに意地悪したいがために繋ぎ止めているだけなのに。どうしてこんなに鈍いのだろう。あたしはかぶりを振って、ナオを部屋から追い出した。
ナオと出会ったのは、今年の夏の終わりである。大学の図書館で、あたしたちは知り合った。図書館なんか普段ぜんぜん使わないんだけど、サークルまでの時間潰しに映画でも見ようと思ったのだ。適当な洋画を借りて視聴覚室に行く途中、近くの本棚の踏み台から転げ落ちたのが、ナオだった。派手に転んだので驚いて声をかけると、彼は照れ臭そうに笑った。
彼は詩集を探していたと言う。目が見えづらいので踏み台に上って探していたら、足を滑らせた、と。あたしはそうなんだ、と冷淡に言った。彼の視線が熱心に注がれるので、そうするしかなかった。詩集を手にできた彼は、とりあえず座ろうと言ってあたしに椅子を引いた。
「どんな詩なの?」あたしは座って彼を見上げる。
「立原道造っていう詩人なんだ」
ほら、僕文学部だから、と彼は笑った。立派な顎をしている、とあたしは思った。彼の歯は綺麗に並んでいて、これもあたしの印象に残った。
「ここを見て。空にも 雲にも うつろふ花にも/もう心はひかれ誘はれなくなつた」
「意味わかんない」あたしが笑うと彼はぐっと身を乗り出した。
「つまりね、僕は今の今までこうだったのだけど……。今は心がひかれて、誘われるようになった」
口説かれていることに気づき、苦笑した。彼は耳まで赤くしている。彼の耳は大きめで、広い耳たぶにはピアスの穴が開いていた。舐めたらどんな声を出すのだろう? 唾液を注いだら、きちんと裏から出てくるのだろうか? そんなことを思いながら、ぱらぱらと詩集をめくり、さきに引用された節を読む。彼はそんなあたしの横顔をうっすらと口を開けて眺めている。あたしはゆっくり瞬きをし、ぐっと机に乗り出した。そしてゆるく巻いた髪を背中に送り、尻を少し突き出す形で、机に肘をついた。
「また会いたくて……ご飯とかどうかな」
「二人で?」
「二人…でもいいし、友達とでもいいし」
「二人じゃなければ行ってあげない」
別れ際、そう突き放したら彼は分かりやすく狼狽えたので、あたしは面白がって背中をばしんと叩いた。
「そう言う時は二人で行きたいって言わないとだめ。いいよ、行こう」
サークルメンバーに挨拶をしながら、あたしは詩を思い出していた。ナオが引用した前の節に惹かれていたのだ。大きな大きなめぐりが用意されているが/だれにもそれとは気づかない。だれにもそれとは、気づかない……。
一目惚れされるなんて、よくある話。いつもだったら無視してしまうような、ぱっとしない、暗そうな男。しかしその節が、後押しした。少し遊んでもいいかな、と思わせた。このような弾みから、ナオとの関係が始まった。
ナオのことは、次の日に呼んだ。アルバイトが疲れて、寂しくなったので呼んだ。会えないと分かり切っている日に呼びだすことが、どんなに男を喜ばせるだろうか? ナオはアパートの前に立っていた。手には前もって買ったと思われる、スーパーの袋。媚を売るように彼に抱きついて、会いたかった、と言うと、彼はたちまち笑顔になった。
「それなあに? 買ってきてくれたの?」
「うん、寄せ鍋をしようと思いまして」
彼は袋を持ち上げるそぶりをする。
「寄せ鍋好きだな、楽しみだな」
そう言ってあたしはヒールを履いたまま、彼の股間を蹴り飛ばした。彼は苦痛で顔を歪めたが、みるみるうちにそれを隆起させた。そのままドアを閉め鍵をかけると、彼は荷物を置いてあたしをシーツに押し倒した。なので思いっきり平手打ちを食らわせて、またがった。
「あんた変態だよね」
あたしたちはそのままやった。ナオは女の子のするような体勢であたしを見上げていた。あたしはと言えば、苛々していた。ナオが好意を示せば示すほど、あたしは理由もなく苛々するのだった。こんなやつ。こんなぱっとしない、目立たない男など、あたしの“めぐり”の中にいるはずがない。あの時。図書館で会った時に距離を縮めたとはいえ、間違いなく、ここは真っ当な道ではない。より道である。それなのに、どうしてこんなに興奮させる? こんなに苛々させる? あたしをつかんで離さないこの男が、あたしは時々物凄く憎くなるのだ。
「そう言えば、インターンにいくんだっけ?」
事を終えた後、ナオは寝転がるあたしの髪を整えながら、そう尋ねた。あるメーカーのインターンに行くのだと、話していたことを思い出した。
「よく覚えてるね」
「ちゃんと覚えておきたいって思う内容は覚えているよ」
あたしがこの人を煙たがる理由は、こういうところだ。会話の節々で好意をそれとなく示すところ。いつかは振り向いてくれる、いつかは好きになってくれる、そう期待されるたびに、あたしは嫌な気持ちになる。
「あたしはよく忘れちゃうよ、そう言ったことも忘れていた」
そう言って、背を向けた。ナオが顔を覗き込んで、夕ご飯どうする? と尋ねる。いい、と短く言い、後ろから抱くように指示をした。
「今日泊まっていきなよ。鍋は明日やろう」
ナオはさぞ顔を明るくさせたに違いない。抱く力を強めて、
「うん!」
と言い、あたしの首筋を嗅いだ。
インターン先の上司は佐藤さんと言い、黒縁の眼鏡をかけた、ビジネスマンである。口数が少なく、効率的に話したがる佐藤さんに詰められると、学生たちは恐縮するようだった。あたしは佐藤さんと少し前から関係があった。一年前、OB訪問で知り合ったのだ。だからこのインターンは冷やかしのようなもので、彼に誘われたから、来ただけだった。
佐藤さんは都内の国立大学と付属の大学院を出ており、この大企業の中で、中国を対象としたマーケティングを行っていた。綺麗な顔の作りと、低く響く声、適度に作られた肉体が、あたしを満足させている。これから一緒にいるのだとしたら、佐藤さんは最も適当な人物である。だってお金がある。学歴がある。有名な、会社がある。佐藤さんがいちばん幸福になれるポテンシャルを持っているのだから、あたしの道がここに落ち着くのは当然のことなんだ。そう思い、今夜もマンションへ足を運び、帰りを待つ。あたしは佐藤さんの肩書きが好きだ。大好きなのだ。
ドアを開ける音がして小走りで行くと、佐藤さんが入ってくる。あたしはにこにこして彼に抱きつき、「お帰りなさい」と言って甘える。佐藤さんも「ただいまゆんちゃん」とあたしの額に口付ける。
「ご飯できていますよ」
「え! そうなの」
「作ったんだから、あたし」
「そりゃすごい、いい子だね」
佐藤さんはあたしの頭を撫でて、奥の食卓に興味を示すようだった。洗濯も掃除もしたんだからねと付け加え、佐藤さんを部屋に導く。佐藤さんは先ゆくあたしの手首をつかむとそのまま自分の胸に引き寄せた。料理が冷めちゃうな、と思った。せっかく美味しく作れたのに。メカジキのソテー。だし巻き玉子。えのきとお麩のお吸い物。セロリのサラダ。きんぴらごぼう。柚子の砂糖漬け。あたしはお尻周辺を触ってくる佐藤さんを強く叱ると、ベッドシーツのある部屋へ顎をしゃくるのだ。
佐藤さんは、ナオよりも喜ぶ。求めることもハードで、一旦スイッチが入ってしまえばあたしも夢中になって、やる。佐藤さんを情けなくするのが、あたしの仕事だ。
佐藤さんの尻は硬くてつめたい。筋が入っていて、清潔である。ローションを手に取って、前立腺を揉み解すように刺激すると、佐藤さんは簡単にいった。男の人が射精でない形でいく方法など、いくらでもある。あたしは笑う。ああ、あたしが男だったらよかった。直腸の温度まで感じられるなら、あたしはもっともっと、男に優しくできたかもしれないのに。
ナオにもやりたかった。ナオにもこのレベルのことをやりたかった。もう少し時間をかければ、できるかもしれない。そんなことを考えて、あたしは腰を上下させる。そして、悲鳴をあげている佐藤さんに口を開けさせ、唾液を垂らすのだった。
「ゆんちゃんは、こういうお店には興味ないの?」
水を飲んでぐったりしている佐藤さんが、うつぶせの状態のままあたしに話しかけた。
「今は塾のバイトが楽しいからなあ」
「絶対、売れるよ」
「でも、Fランだから昼はインターンいきまくらないと。就活難しい」
「そりゃあ大変」他人事のように彼は言った。
夕ごはん温め直すね、とあたしは立ち上がった。佐藤さんはシーツを剥がして、洗濯機に入れる。冷めたご飯をもう一度あたためるとき、あたしは少しかなしくなった。なぜだかわからないけれど、かなしくなった。
「そういえば、クリスマスどうするの?」
持ち直してあたしは尋ねる。
「あー、仕事なんだよね」
「そうなの? 大変だね」
「その前の週の土日に祝うのはどう?」
「賛成!」とあたしは笑った。
夜が更けていく。窓の外を見ると、建物や木々が夜に溶けていて、違和感さえも、溶かしていくような気がする。
久しぶりに会ったナオに、あたしは優しい気持ちになっていた。ナオからのラインは全て無視していたから、招いた時、彼は泣きそうな顔をしていた。ナオの少し長い顎と奥二重の瞳、色黒の、いかにもサッカーやっていました、と言った感じの体が、佐藤さんとは異なる男であることを顕著に表していて、あたしはそれが気に入った。会えなくて、とナオは話す。
「会えなくて、どうにかなりそうだった」
「うそつけ」とあたしは言った。
その後、彼がじっと窓の外を見ていたので同じように見てみると、赤紫色の空が広がっていた。壁紙のように西側に貼り付けられたそれを見て、あたしはなんだか、胡散臭いな、と思ったが、ナオは
「キャンバス一面に描きたい気持ちだ」
と言った。その時初めて、ナオが絵を描くことを知った。あたしは少し嫌な気持ちになって、今すぐやりたくなった。
「ね、やろう」
あたしは返事を聞くまでもなく、彼を押し倒した。袋を口に含んでちょっと吸うだけで、彼はほんとうに面白い反応をした。男の子のあれはなんだってこんなに面白いんだろう。己の器官をぐんと転換させることができるのだ! しかも百八十度も! あたしは惚れ惚れとしてそれを見つめた。今すぐ踏み付けたい。この、どうしようもない自己主張を今すぐヒールで蹴とばしたい。
あたしは上に乗りながら、佐藤さんとのそれを思い出していた。やっぱりナオにもああいうことがしたかった。ナオのああいう顔が見たかった。もうあたししかいらない、あたしがいれさえすればいい、というような顔が見たかった。
夜になるのが早い。さっきまでの夕焼はすっかり黒に飲み込まれてしまって、しんとしていた。ああ、ナオが“それ用”の人間としてそばにいてくれたら。大手勤めの佐藤さんと暮らしに、ナオを加えられたのなら。小さな犬を飼うようにして、ナオと暮らしたい。時々遊んで、心を満たしたい。そんなあり得ない想像をしたところで、彼は果て、あたしは動きを止める。
「お尻の穴とか興味ない?」
ナオは目を大きくして、あたしのことを見た。あたしはティッシュを三回引き抜き、ナオに手渡す。
「……考えたことがなかった」
「きっと好きになるよ」
あたしが言うと、彼も「そこまで言うなら」と乗り気になったので、あたしは有頂天になった。まずは周りを触って、慣れさせてからやっていくつもりだから。あたしは塾の生徒に教えるみたいにそう語りかけた。
深夜のお笑い番組を見ながらナオにひっついている。ナオは何でも尽くしてくれる。好きだと言ってくれる。提案を受け入れてくれる。料理をしてくれる。ナオの優しさと、佐藤さんの肩書きが、合わさった人間が現れたらいいのに。彼の頼りない薄い胸板を嗅いだ。柔軟剤の香りと体臭が混ざって、自分の身体からも、男の匂いがする。
なんとなく予想はついていたのだが、勘が的中した。
「あ」
斜陽の冒頭さながらそう言ったのはスープに髪の毛が入っていたからではなく、洗面所の下の戸棚にコテと開封された生理用品があったからである。佐藤さんは、仕事から帰ってきていなかった。一人で留守番していたあたしが、たまには風呂掃除でもするかと、用具を探していた、最中。
あたしはそのコテを手に取ってしげしげと眺め、ブスに決まってら! と叫んだ。コテには長い髪の毛が数本挟まっていて、あたしはざらりと心を引っ掻かれた気持ちになった。そっと元にあった場所に戻し、他の場所を調べる。鏡の裏にはばら園のボディミルク。ばら園のトリートメント。ばら園のヘアオイル!
「ババア!」
あたしは叫び、鏡の収納を閉じた。部屋に戻り、佐藤さんの書類で散らかったゲーミングデスクを見下ろす。
こうなったら、終われない。あたしはそっとデスクを開け、名刺や小銭、ファイル、年賀状、筆記用具があるのを認めた。それから少し奥に手を伸ばし、何らかの紙類に触れた。手紙と写真。素早く目を通す。アホそうな丸い文字。甘ったるい言葉づかい。写真には、熱海に行った二人が写っている。綺麗な顔で優しく微笑む佐藤さんと、いくらか面長すぎる顔で笑う“ナツコさん”。本名がわかったところで検索をかけると、やっぱり出てきた。今の時代なんだって出てくる。フェイスブックで適当なアカウントを作り、ナツコさんのページを開いてみると、彼女が大手の広告代理店で働いていることを知った。大学時代から佐藤さんと付き合っていて、もう十年目だということも知った。彼女のプロフィール写真がシーツに包まれた彼女自身であることも、それが明らかに佐藤さんに撮られたものだということも、コメント数が多くて人望があることも、特別顔がいい訳ではないのに自分に自信があることも、何となく、分かった。
あたしはそれらを戻し、佐藤さんの帰りを待った。帰ってきた彼の冷えた頬に自分の頬を押し付けると、彼は愛おしそうに笑った。夕食。酢豚とサラダと豆腐の味噌汁、きんぴらごぼうを食べる佐藤さんを見ていると、佐藤さんが平気な顔であたしと浮気していることも、佐藤さんがマゾヒストのド変態だと言うことも、どちらも夢ではないかと思うほどふわふわと感じられた。
「佐藤さん、クリスマスやっぱり会えないの?」
「うーん」と佐藤さんはご飯を飲み干した。この人はご飯と味噌汁を混ぜて食べるのだ。かき込むような食べ方にあたしは何も言えなくなる。肩書きは好きだが、がつがつ食べるところは、好きじゃなかった。
「仕事が入っててさ、ごめんね」
ほんとうに申し訳なさそうに言う。ほんとうに忙しそうに見せる。あたしはそっか、としょんぼりしてみせた。佐藤さんは席を立ってあたしを抱き締めた。あたしは少し泣いた。ああ、かわいそう。かわいそうなあたし。大切にされないあたし。九つも年上の男に、弄ばれているあたし。そんな自分に酔ってもっと泣いた。かわいそうなあたし!
クリスマスは平日なんだから、仕事があることくらい分かっている。佐藤さん、あたし、仕事の後会えないか、聞いているんだよ。
夕食後、あたしたちはいつものように変態セックスをした。佐藤さんがペニスバンドを購入していたので、あたしはスパンキングしながらそれを前後させた。佐藤さんはかすれた声であえいでいた。あたしはむろん佐藤さんの体温を感じることができない。叩いても叩いても手のひらが痛くなるばかりでやりきれない気持ちになる。
「男友達に」とあたしは言った。
「佐藤さんみたいな変態の友達がいる」
佐藤さんはうん、と応じる。喋るなって言ったよね。あたしが動きを止めると、佐藤さんはワンワン言って謝るので、再開する。
「犬二匹でやったらどうかなと思うんだよ。つまり3Pね」
さんぴい、というワードに興奮したのか佐藤さんはぎゅっとシーツを握った。白い木綿のような生地に、二本のしわがなだらかに現れた。
「どうなんだよ」タマ袋を強くつねると、佐藤さんは獣みたいな声を出した。
ナオはクリスマス空いているのかな、とあたしは思う。どちらでもいい。日にちなど関係ない。毎日部屋に呼んで、少しずつ慣らしていけば良いことだし。
あたしは体勢を変え、佐藤さんの顔を便器のように扱って、舐めさせた。その出来の悪さから叱り、太腿で首を絞めて失神させる。失神させた後はビンタで起こす。これを繰り返す。佐藤さんは小さな兎みたいに痙攣していて面白い。この人がここで死んでくれたらいいのに。死んでくれたら、彼女にも、何をしていたか伝わるから。この人がどうしょうもないクソみたいな変態だって伝わるから。
プレイに飽きたので終わりにした。酸素を取り入れようと荒い呼吸する佐藤さんを無視して、ベランダで煙草を吸う。
……これが道だろうか?
あたしは鞄から、詩集を取り出した。ナオに話を聞いてから気になり、自分でも購入した立原道造の詩集だ。あの日読んだ「晩き日の夕べに」を、あたしは引く。
“しるべもなくて来た道に/道のほとりに
なにをならつて/私らは立ちつくすのであらう”
あたしは目を閉じた。秋の終わりの空気が、あたしの鼻をつんと刺す。
帰ろう、とあたしは思った。
その日ナオが訪ねてきたのは、LINEで呼び出してから数時間経ったころだった。玄関で迎えると、彼は少し微笑んで、昼ごはんを食べよう、と言った。クリームパスタとカルパッチョの具材を買ってきたんだ。あたしは頷いて彼をキッチンへ誘導する。
いつもと違う彼に、あたしは焦って詩集の話を始めた。ナオが借りていた本を買ったこと、その中でも好きな作品のこと、それから詩は小説よりも作家自身を表すと思うか……しかしナオは「うん」とか「そうだねえ」という言葉しか返さなかった。ぜんぜん食い付かなかった。
あたしはだんだん苛々してきた。なぜあたしが媚を売らなければいけないのか。考えてみればナオはいても、いなくてもどちらでもいい存在だった! 来れば受け入れ、来なければ放っておけばいいのである。自主性のない人間など必要ない。懲らしめてやる。そう思って、あたしは、
「よく遊んでいる男がね、ひどいマゾなんだよ」
と話し始めた。ナオは薄力粉を振った野菜に牛乳を加えて煮立たせている。
「良かったらでいいんだけど、3Pしてみない?」
ほらその人もお尻好きだし、あなたもこれからやるんだったら参考になるかなって。ほぐし方とか必要な物とかも知れるしさ。あたしは焦って早口で続けた。しかし話を終えても、空気はしんとしていた。暖房のついていない部屋は寒かった。かち、と火を止める音が聞こえた。
「あなたは間違っている」
見上げると、ナオがこちらを見ていた。唇をぎゅっと結んで、体を硬らせながら。あたしは動揺して目を逸らす。あたしには分からなかった。なんでこんなことになってしまったのか。なんで、ナオが、あたしを責め立てているのか、分からなかった。
「僕はああいうことは、好きでもなんでもなかったんだ」
道。全てのことは繋がっている。起こること全てに意味がある。それは大きな力による導きで、抵抗できるようなものじゃない、と思っていた。
けれど違った。結局、道とは、あたしが選択したものだったのだ。どこまでも広がる選択肢の中から、自分の手で選んだもの。自分の責任で、これしかあり得ないと、選びとったものだった……。
この人は、本当にあたしのことが好きなのだ。
窓が結露で濡れていた。その先に、色を落とした紅葉の枝がぼんやりと見える。冬がくるのだ。本格的な冬が。あたしは彼のつま先に視線を落としながら、じっくりと、あの詩の最終節を思い出していた。
“私らの夢はどこにめぐるのであらう
ひそかに しかもいたいたしく
その日も あの日も賢いしづかさに?”
参考 立原道造『萱草に寄す』
秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる
はっと気づかされる気持ちをいろいろな形で書きました。夏の短編よりもやや説明的に、また陳腐になってしまった気がします。会話や仕草の中から人物を際立たせる描写を目指したいです。