限界オタク
重い前髪だな、と思った。しかも、広い。どう注文すれば、こんな仕上りになるのだろう?
わたしは微笑して彼女を見つめ、「アニメが好きなんだね」と言った。すると彼女はきょろきょろと視線を動かし、胸の前でぴんと右手を挙げ、下から覗き込むようにして、
「あの、あの、こう見えてヲタクなんですよ」
と早口で言った。
わたしは目を大きく開き、ゆっくり瞬きをする。それから八重歯が見えるように口を開いて、「そうなんだ」と笑った。夏の終わり。秋の風がやさしく吹く、四限終わり。「こう見えて」って見たまんまじゃん、と思ったが、言わなかった。信号機が青に変わり、わたしたちは歩き出す。
「何についてのヲタクなの?」
「アニヲタでして……というか腐女子でして」
「フジョシって何?」
わたしの問いにヲタク1は漫画みたいに「ひうっ」とうめき声をあげて肩をあげ、ぼそぼそ独り言を言った後、そのフジョシについて、教えてくれた。しかしこれは会話を繋ぐための質問であり、わたしはとうに腐女子の意味など知っていたので、てきとうに聞き流すことにした。
わたしがなぜこのヲタク1と帰っているのか、まずはそれを説明しなければならない。簡単な話だ。ここ二週間、わたしは仲のいいグループから弾き出されていた。誰かの男に好かれてしまったのである。断ったのにも関わらず、彼はわたしの友達とひどいやり方で別れた。男っていうのは、ほんとうにろくなものじゃない、彼らは女の空気を察さない。そしてひとりになったわたしが、人数合わせとして入れられた発表グループ、それが、彼女のいるグループだった。女子にハブられて渋々ヲタグループに来た女! 大学二年生にもなってそんなことをされている自分が恥ずかしいが、それだけのことだ。ほんとうに、たいしたことではない。どこにでもあるばかばかしい話だ。
ヲタグループはわたしの出現に動揺していたけれど、わたしが笑顔で彼女らの趣味について尋ねるので、警戒心を解いて、たくさん話し始めた。もともとわたしも絵を描くのは好きなのだ。同人誌の出し方とか、二次創作の小説の書き方とか、わたしたちはそういった話題をお喋りした。中には気難しい子たちもいて、彼女らはわたしに会釈をするだけで、話しかけてもぼそぼそと呟いてあまり応じなかった。わたしが追い出された者だと分かっているはずなのに、応じずに黙々とスマホゲームを進めている子もいた。少しくらいは気を使ってくれたっていいのに。こんなコミュニケーション能力なら、彼氏がいないのも納得。そう思ったけれど、イモくさいヲタクに当たっても仕方がないので、わたしは静かに微笑んでいる。
蜜柑の香りがして見上げると、もう木々は黄色く染まっているのだった。「こう見えて」ピアスの穴がいくつも開いていることを話すヲタク1を、わたしは一瞥する。特別ブスなわけじゃないのに、どうして身だしなみに気を遣わないのだろう。せっかく肌が白いのだから、くすみピンクのアイシャドウで上瞼と涙袋を囲って、白いラメを黒目の上に乗せて、艶のあるリップを塗れば可愛い顔になりそうなのに。変わっているなあ、と思う。でも意外とあのコミュニティではこういうのがモテるのかな。こう見えて痛みを受けると興奮するんですよねと早口でイキるヲタク1と別れた後も、わたしはそんなことを考えていた。
★
わたしは二十歳になった。健さんが向かいの席で日本酒を頼んでいる。フレンチに合う日本酒だと言う。わたしは両手を膝の上で組んで、下品にならない程度に辺りを見渡し、健さんに笑いかける。
「こんなに素敵なところがあったんだね」
健さんは良いでしょ、と頷いた。ぎょろりとした目をさらに大きくさせて。三年記念日だねと笑い合うカップルの声、営業の交渉術について話す男の声、ゆったりとしたガーシュウィンが流れていても、わたしの耳に聞こえてくるのは様々な地獄。集中しなければならない。わたしは目の前の中年男の、色の黒い首を見つめた。
「せっかく二十歳になったのだから、茉子ちゃんがこう言う場になれるのも大切だと思うよ」
「知らなかった、こんなところ。さすが健さんだわ」
料理が待ちきれないと甘えた声で言い、わたしは満面の笑みを浮かべた。健さんはわたしを愛おしくてたまらないと言う風に見ていた。この後のことに想いを馳せている中年男の色ボケた顔ほど気持ち悪いものはないな、とわたしは思った。
どうしてこんなことをしているのだろうと、思う。こんなにばかげたこと。それは、わたしにもわからなかった。暇だった。そう、健さんとの関係は暇つぶしだった。わたしには時間が有り余るほどあった。夢中になれるような趣味もなかった。健さんに色々なものを教えてもらう……いや、もっとはっきり言えば、おいしいものを食べさせてもらう。それを望んでいたのだった。わたしは料理なんかできなかった。友達もいなかったし、男の子たちと話すのも疲弊した。健さんはその点、面白かった。何よりわたしが悪いわけではない、周りが幼いだけなのだ、と笑い飛ばしてくれるところが、わたしの心を軽くするのだった。
食事。食べることは幸福だと、わたしは思う。食べれば食べるだけ、満たされていくから。もっとも原始的で、手っ取り早く不満を解消してくれる行為。皿の真ん中に乗せられた小さな肉を、控えめに浸されたタイのカルパッチョを、永遠と出されるフランスパンを、わたしはひたすら食べつづける。健さんの仕事の話を聞きながら、健さんの政治批評をおだてながら、健さんの文学講座に相槌を打ちながら……。幸せだ。幸せだ。食べることは、幸せだ。そう思う。そう思いこむ。健さんがそんなにおいしい?と尋ねる。今日もわたしは何度もうなずき、おいしい、と呟くのだ。
……つめたくやわらかいシーツを耳に感じている。反対の耳はとうに愛撫されている。目を瞑っているといっそう生々しく感じられた。わたしは目を開ける。若々しく振る舞ってはいるが、加齢が欠かせない目の皺、皮膚の感じ。わたしの上にいる男がわたしの名前を呼ぶ。わたしは小さな声で答える。愛していると言って、とわたしは言う。愛していると男は囁く。日本語? 日本語なんだろうな。ときどき言葉がわからなくなる。わたしは昔からそうだ。ときどき書いてある字や話している言葉がぐにゃぐにゃになって旋回するのだ。男はわたしの腰を強くつかみ、押し付ける。わたしは適当な場所に当てようと仰反る……。
健さんの本名は教えられていない。健さんという呼び名しか、教えられていない。彼のいなくなった部屋は、とても居心地が良かった。わたしは寝返りをうつ。健さんは、けちではない。食事で三万円。セックスで十万円。ホテル代ももちろん健さん持ちで、明日の午前まで、わたしはこの部屋を独り占めできるのだ。わたしは机に置かれた白い封筒を見つめ、ロエベの鞄に入れる。
知っていることもある。
健さんが歯科医であること。それと、開業している歯科医院の場所。教えられていないけれど、調べたので、知っている。健さんは最初、自分はお医者さんなのだと言っていた。何のお医者さんなの?と尋ねたら、歯のお医者さんだと答えた。だから正しい歯磨きの仕方は教えられるよ、と言った。クチコミによれば、優しくて、丁寧に説明してくれる先生らしい。以下、院長挨拶より手に入れた本名。和田さん。和田健一さん。患者さん一人一人に合わせたきめ細やかな治療を行います。奥さんは歯科助手。写真を見る限り綺麗な人。こんなに綺麗なのに、健さんは、妻じゃ満足できなくて、と言った。わたしは残酷な気持ちになる。だって、わたしは好かれている。わたしはこの綺麗な女の人よりも大切にされているのだから。健さんを嫌悪しながらも、どこかでそんな優位な気持ちが沸き起こる自分を、わたしは認めずにはいられない……。
「大丈夫」
わたしは間違っていない。わたしは悪くない。これは、わたしが生きるために必要な選択なのだ。そう言い聞かせて、また、眠りに落ちていく。
★
ヲタク1にも彼氏がいたらしい。わたしが尋ねたのではなく、ヲタク1が話し始めて、ヲタク2がそれに乗った。しかし確実にヲタグループ新人のわたしに向けられたものであったため、わたしはにこやかに応じた。遊びに感けていそうなタイプの女に、自分たちも熟れていることを示したいのだ。
「元彼は殴る人で、クズだったんですよ」
ヲタク1が右頬に拳を当てるような仕草をして、そう言った。わたしは殴るの? と驚いたような声で尋ねる。するとヲタク2がサポートとして、
「でも1はクズホイホイなところがあるからなあ」
「そそそんなこと!そんなことないっすよお」
わたしが大袈裟に書いていると思ったかもしれないが、驚くべきことに「そそ」は本当に発音しているのである。この人たちは本当に漫画のような反応をするのだった。お手洗いに行きたくなったが、ちらりと時計を見て諦める。
「この前だって殴られると興奮するって言ってましたよね」
「あー、確かに痛みには過激に反応しちゃうかもしれない、ピアスとか殴られたときとかかなり嬉しいですし」
彼女らはけっしてわたしに「マゾなところがあるんですよ、私」とは呼びかけない。だからわたしは二人のやりとりを聞いて反応しなければならなかった。変わっている自分が好きなのだ。中二病のようなものだ。わたしは冷ややかに彼女たちを見つめる。彼女たちはわたしの視線に気づいていないのか、それとも見ないようにしているのか、二人で話を続けていた。
彼女たちには、毛玉だらけのニットとジーンズを履いている自分たちが、どう見えているのだろうか。流行遅れの帽子や髪型、野暮ったい色の組合わせを、どのような気持ちで選んでいるのだろうか。爪も塗らず、すっぴんで、ごわごわした髪で、垢抜けない服で、ダイエットもしていなくて、こんな見た目で、人生楽しいのだろうか。それでも彼女たちはグループの中で、水を得た魚のように喋り始める。誰を弾き出すこともせず、身内の中で、永遠にアニメや漫画やゲームや推しの話をし続ける。ここまで趣味に没頭できるのも素敵な事なのかもしれない。わたしは冷淡に見つめる自分を笑顔でかき消し、「ドMなんてめっちゃ意外!」と笑うのだ。
男の子の話に反応するように、とわたしは思う。この人たちと接する時は、男の子たちと話すようにするとよい。媚は売らず、丸く目を開け、大げさに頷く。そして「すごいね」「そうなんだね」の第二分節で涙袋を目立たせるような微笑をする。すると彼女らは生き生きと話し始める。粘り強く頑張り屋なところが長所です。いつか、小学校の担任はそう言ってわたしを褒めたっけ。先生、わたし、ちゃんと粘り強く生きられていますか?
休憩時間が終わり、わたしの発表の時間になった。この講義は、プレゼンの成果が最終的な成績となる。グループごとに優劣をつけられるため、厳しい教授の手前、皆懸命に準備をしていた。さまざまな質問に答えられるよう、グループ内で何度も練習を行う。
「……これらことから、桂は帝国主義者と立憲主義者の両方の側面を持って歴史的局面に対処した人物といえます」
わたしの言葉に、ヲタクたちはなかなか頷かない。書簡や日記、回想録から見た桂像。わたしは肩をすくめた。ヲタク1は拍手の後、小さなメモを持ってわたしに近づいてきた。そしてあんまり言いたくないんだけど気になったこと言うね、と早口で言って、発表の改善点を話し始める。それが内容でなく、態度や話し方、レジュメの形式の指摘であったため、わたしはうんざりした。もちろん顔には出さなかったが、呆れていた。
他のヲタクは力強い発表をしていて、わたしを驚かせる。なるほど、こういうパフォーマンスを加えて発表するものなのか。こうした態度に重きを置くならわたしの発表のウケが悪かったのも納得できる。前にいたグループは、先輩から貰ったものをつなぎ合わせて作っていたから、分からなかった。前のグループにもうんざりさせられたけれども、ここまで行くのも要領が悪いと感じる。
「われわれ演劇部、力を合わせて勝ちましょう!」
授業後、ヲタクの誰かがそんなことを言ったので、わたしは振り返った。演劇部なんだ、と尋ねると、ヲタク1が頷いた。「こいつが脚本書いているんですよ」とヲタク2か3か4が1を指して言った。
「脚本……すごいねえ」
ヲタク1はぴんと立てた五本の指を細かく左右に振り謙遜した。ああ、とわたしは合点がいく。だからこの子、この前本を読むのか尋ねた時に「書く方!」と強調して話していたのか。何度も何度も。
何となく、ヲタクが嫌いになった。おそらく発表を否定されて不快だったのだ。前のグループでできないふりをするのも大変だったけれど、頑張りが認められないのもがっかりした。わたしはヲタクたちと別れると、図書館に行って数冊の本を借りた。それからそのまま三時間、勉強した。成績が落ちると給付型奨学金の審査に通らなくなる。だからわたしは懸命に、毎日、ここで勉強しているのだ。
誰にも理解されない。けれども、されたくもなかった。
★
日曜昼間の駅構内のカフェはおばちゃんばっかりで視線が痛い。これにする、とフルーツパンケーキを指差す。健さんはケーキセットを頼んだ。ウェイターが興味津々でわたしの顔を見るが、わたしは彼女を凝視し素早く立ち去らせる。さいきん本を読むのにはまっているんだよね。わたしはえくぼを見せながら、切り出した。
「本か、茉子は誰の本を読むの?」
呼び捨てで呼ぶなよとわたしは思う。身体に張り付いたニットワンピースを着ているせいか、それとも健さんの視線がいやらしいせいか、わたしたちの雰囲気がそうさせているのか、わたしたちは父と娘には到底見えそうになかった。健さんは、嫌な人ではない。けっしてブサイクではない。しかし、見るに耐えない瞬間がある。例えば僕たちって恋人同士に見えているのかな、と訳もなく顔をこちらに寄せて話してくるとき。呼び捨てで話し掛けた後、理由もなく指や手首に触れてくるとき、など。
「昨日は井伏鱒二を読んだ」
「井伏か! 山椒魚とか、黒い雨を書いた人だよね」
「でも、短編だよ。なんか、実話見たいな短編」わたしは笑う。
健さんは本を読むの? と問うと、最近は読まないなと返された。井伏といえば、太宰だよね。彼の作品は少しだけ読んだけれど。健さんはモンブランを少しずつ食べた。わたしは太宰はあまり読まないので、あいまいに頷きながら話を聞いている。
「僕が茉子の頃はね、フランツカフカを読み漁ったよ。友達と」
そこからはいつもの話……健さんの受験の思い出話になったので、わたしはひたすら相槌を打つことになった。国立大学のために何教科も勉強した話は、もう何十回も聞いている。わたしはいつものようにたいして苦手でもない数学が苦手だと話し、理系の健さんを喜ばせる。健さんは優しい。それで、健さんはちょっとばかだ。もう五十になるのに、二十歳のわたしにそんなふうに思われているのだもの。
健さんはわたしに封筒を渡すと、少し寄り道して帰ろうと言った。何か買ってあげる。そう言う健さんに、特に欲しいものはないけれど、一緒に見たい、とわたしは同意した。下りのエスカレーターで、健さんが先に乗る。振り返る。そして、手を繋ぎたいと言う――わたしは一度フリーズして、そして、右手の人差し指から小指までの第一関節を健さんの左手にそっと載せた。ここまでしても分からないなんて! 半ば呆れながら健さんを見ていたが、彼は嬉しそうにわたしの手を握る。わたしはいつものように軽蔑の視線を感じながら前に進む……。こういう時、なぜ嫌そうに見られるのは女だけなんだろう。
この時間分のお金はもらえないの? なんて聞けたらどんなにいいことか。きっと聞けるような子が、こういうことに向いているのだ。少し前なら聞けたと思う。ヲタクグループに入る前だったら。わたしは若く、そして可愛らしい……それでも今は堕ちたヲタクグループに「入れてもらっている」状態なのだ。そこまで考えて、わたしは初めて、意外にも前のグループに執着していたことに気づくのだった。
気になっているブランドの鞄を見た後、わたしたちは解散した。今日は一緒にいてあげられなくてごめんね、と健さんは言った。首を横に振って微笑むと、再来週はおいしいところに連れて行ってあげるねと言われた。それから彼は炊飯器を買うよう妻に言われている、と言って駅の外へ歩いて行った。背の高い中年男を見届けたのち、わたしはそのまま駅ビルに入り、封筒の中身のお金で化粧品を買って、帰った。
★
「可愛い」というのは、「手の込んでいる」ことの集合体だ。美容院。眉とまつ毛のサロン。陶器のような仕上がりとなるベースコスメ。それらを整えるための美容クリニック。揺れる上質なイヤリング、細やかなネックレス。整えられた爪。質のいい服。ブランドの小物。ヒールのパンプス。可愛くいるにはお金がかかる。しかし可愛ければ可愛いだけ、強くなれる。もう、わたしは十分目立つ。浮いてしまうくらい、似つかわしくない物を身につけている。だからもう、よかった。「パパ活」がバレても、なんてことなかった。
――この前のことが、誰かに見られたのだった。通りすがりに言われたことで、知った。
ヲタクグループには、伝わっていないのだろうか。伝わっていなさそう。この子たちはわたしがどんな物を身に付けていても、全く気にしないから。言われたとしてもよく分からないと思う。わたしは視線を感じ、目線を上にあげた。話したことのない女の子たちのグループが慌てて目を逸らした。耳にかけた髪をもう一度なぞり、深呼吸をする、ヲタクグループは何事もなかったように今日もBLの話をしている。わたしが話しかけるまで、「あー、あー、今朝は鼻血が出まして、血を見てクラッとしてしまいました」と早口で言っている。視線。視線がわたしの身体に刺さる。わたしはゆっくりと席につく。なんてことない。何が悪い。妬みから人を追放して、笑っている人間と。誰にも迷惑をかけずに好きで中年男と寝ているわたしと。どちらが悪い、とわたしは思う。わたしの存在の、何が悪い?
それでもわたしは冷や汗をかく。呼吸が浅くなり居心地が悪くなる。外には出さない。絶対に怯えた様子は見せない。そう決心して本を開くーー井伏の「鯉」。最大の理解者青木の忘れ形見、鯉を、愛人宅から吊り上げ、プールに放つ。そして、興奮して眺める。感嘆する。何だろう、ああ、この、
執着心。
語り手は青木になりたかった。青木は理想の自分だったのだ。わたしもなりたかった。美しいわたしに。目立つわたしに。豊かなわたし、苦労を知らないわたし、親切なわたし。何より、大切にされているわたし。そう生きるべきであった、もう一人のわたしに、わたしはなりたかったのだ。
★
胸の間にできた炎症が、昨日よりも暗く青くなっていた。あざのようなもの。いつの間にかできていた。寝不足やストレスによって起こる皮膚炎らしい。気分が晴れず、昨日からできた口内炎が痛かった。メイクが落ちないよう静かにシャワーを当て、ボディソープで男の唾液のあとを洗う。
バスルームから出ると、健さんはソファに座って窓の外を見ていた。わたしもそばにより、立ったまま外を眺める。
「これ、お金ね」
健さんは、外を見たままテーブルに置いた封筒を二度叩いた。わたしは受け取り、確認して、頷く。
「最近元気ないよね」
「そんなことないよ」とわたしは言った。
「お小遣い増やそうか」
「いい、いい、十分貰ってる」
そう言うと、健さんは少し微笑んだ。ウイスキーの氷が音を立てる。
「茉子はバイトしていないの?」
「……してない」
「バイトはしておいた方がいいよ、社会経験になるし。僕も色々やったなあ」
「何も向いてないと思う」
わたしは少し苛立って言った。何気ない一言に、なぜか自分が押しつぶされるようだった。もう押しつぶされているのに、また硬い突起を突っ込まれてぎゅうぎゅう押されるような気持ちだった。もうわたしは潰れているのに、原型を留めていないのに、なんとかしてそれを持ち直そうとしているのに、やればやるほどぐしゃぐしゃに、ぺちゃんこになっていく。午後の陽光が差し、こめかみを焼いた。胸がむかむかしてきて、具合が悪くなった。健さんはげらげら笑った。そして手を叩き、こう言った。
「じゃあ風俗でもやれば? バーニラバニラ、バーニラってね、はは」
わたしは悟られないように、それもありだね、と笑った。
健さんが帰ったあと、スマホで歯医者のホームページを開いた。写真なら、たくさんある。この連絡フォームに乗せてばらまいてやろうと思った。しかし、結局やめてルームサービスを取った。
バターの溶ける上質なレーズンパンを口に運ぶ。
どうして今まで気づかなかったのだろう?
わたしは、ずっと、軽んじられていたのだった。
★
グループ発表は成功した。みんなで頑張ったかいがあった。三位だったのだ! 納得のいくパフォーマンスができたとわたしは思ったが、彼女たちは悔しがっていた。でも、さすがヲタクの器量! スライドに示されたイラストがうまくて、とても可愛い。可愛いスライド選手権だったら一位だったよ、とわたしが言うと、彼女らは照れ臭そうに笑った。
そこへ男子学生がやってきた。わたしはその男を知っていた。昔、短い期間付き合っていた男だ。たぶん三か月くらいだと思う。わたしが思ったよりも強情な女だったせいか、早々と別れを告げられたのだった。
「茉子、来週の金曜、飲みくる? お前の友達も来るらしいけど」
わたしは彼を見上げた。彼は気怠そうにポケットに手を突っ込み、たまたま席を外していたヲタク3の席にどさりと座った。遠目でそれを確認したヲタク3が、戸惑って教室のドア近くで時間を潰している。
「行かない。友達じゃないし、あんたとも飲みたくない」
「あ、喧嘩したのマジだったんだ」
「してない」
ふうん、という顔をして、彼は机に座るヲタクたちをじろじろと見た。ヲタクたちは目を合わせないようにうつむいて、もう関係のない発表レジュメを読んでいる。彼は近くに座っていた一人のメンバーを見続け困らせたので、わたしは不快になった。
「行かないから、もう帰ってくれない?」
それには答えず、彼は言った。
「お前、この前あの駅の鞄屋にいたよな」
わたしは彼を見た。彼は勝ち誇ったような顔をしてわたしを見ていた。わたしに否定するひまも与えず、彼は続けた。
「よくできるよな。みんな、知ってるよ」
「……」
「それがどうしたんですか?」
後ろから聞こえた声にわたしは振り返る。ヲタク1――荒井さんだ。彼女はイラストの一点を見つめて声を荒げていた。わたしは口を開けたまま、彼女の白い横顔を見つめる。
「なんですか、いつもいつも、私たちをバカにして」
教室がざわつき、野次馬が出てきた。面白がって、動画を撮り始める者も出てきた。かつて所属していたグループが、笑いながらこそこそ話している。キレるヲタクだ、と声がしたが、わたしはなお荒井さんに視線を注いでいた。
「人に優劣つけて、ださいとかヲタクだとか言って! 私たちは好きなことしてるだけですし」
おお、がんばるね、と男が言った。からかうような目線と頬杖のつき方に、荒井さんは顔を紅潮させたが、続ける。演劇部だと彼女は言っていたーー声に張りがあって、それはわたしを惹きつけるものだった。
「それに茉子さんとはもう何もないのに、誘ってくるなんて。どんなに細工しても、茉子さんはあなたのような幼稚な人とはもう付き合わないんですよ」
はあ? と男が身を乗り出した。わたしは荒井さんの机を叩いて静かに、と人差し指を立てた。それから立ち上がって、彼の肩を優しく押さえ、着席させた。そしてきょとんとしている男の頭に、勢いよくスマホを振り下ろした。ごっ。
脳天に直撃したそれを見るが、何ともなさそうであった。後戻りはできない、と思った。だから。だから、やらなければいけない。最後まで、ちゃんと、やらなければならないと思った。
ごっ。ごっ。ごっ。ごっ。
制止する男の腕を払い、汚らしい茶色の髪を掴み、打ち続けた。昔、空手道場で習った手首のひねり方を、実践する。
ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ、ごっ。
だんだん早く上下する腕。画面が割れる。指が男の血で汚れる。悲鳴が聞こえる。わたしは何かうわごとを言っている。しかしわたしの耳にはもう血液が巡って、何にも聞こえない。ぼわんぼわんと空間が反響している。視界がゆっくりと渦を巻きながら動き、世界がモノクロに見え始めた。レジュメに書かれた文字が浮かび上がって踊る。鈍い音とだんだん柔くなっていく感触だけが、わたしの脳を刺激した。
四限開始のチャイムが鳴った。
構わず、何度も、打ち続けていく。