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夏の匂い 雨の中で

作者: 柿原 凛

 雨の匂い。まだ降ってもいないのに、アスファルトが湿る匂いがして、教室の窓から空模様を伺った。冷房設備が完備されているこの教室は、私に下敷きで胸元を扇ぐことも、タオルで汗を拭うことも許してくれない。灰色の教室に、灰色の空がだんだん侵食してきて、私は思わず数式が並んでいる黒板も灰になってしまえば良いのにと思った。


 半年後の受験を控えたこの教室で、私は半年前に彼と出会った。彼は水色であり、青く生い茂る新緑を感じた。爽やかを絵に書いたような人で、そんな彼によくお似合いの、黄色を感じる優しい彼女がいる。校内でも有名な、お似合いのカップル。頭が良くて、運動ができて、それでいて見た目も。そんな二人に、付け入る隙なんてなかった。


 でも唯一、私は黄色の彼女に勝っていることがある。それは彼との小さい頃の思い出。一緒に通った幼稚園の思い出。庭で一緒に遊んだプールの思い出。縁側で一緒に遊んだ花火の思い出。一緒に食べた、小学校の運動会のお弁当の思い出。彼はいつも私と一緒だった。中学に入ってからはそれが恥ずかしくなって、だんだん疎遠になった。そこで気付いた。ずっと、この人のことを好きだったんだって。そう思ったら、もっと恥ずかしくなって、結局中三の1年間は一度も話せなかった。


 高校に入ってからすぐ、彼に彼女ができた。優しいひよこみたいな、でも透き通るレモネードのようでもある、素敵な彼女。付き合う前には何度か相談も受けた。その黄色を感じる素敵な彼女から。私と彼女は一年のときのクラスメイトで、この高校で始めてできた友達だった。だから、私は応援してしまった。彼の好き”そうな”お菓子も、彼の好き”そう”な曲も、彼の好き”そう”な髪型も、教えてしまった。だから順調に二人は交際をスタートし、高三の夏まで途切れることはなかった。だから私は何も言い出せずに、高三の夏まで気持ちをしまい込んでしまった。


 夏休みの夏期講習も今日で最終日。結局、何も頭に入らないまま、ただ後ろ姿のお似合いのカップルを見て、なんとも言えない切なさを感じる数日間だった。まさか二人とも一緒に同じ夏期講習を受けるなんて、神様も残酷なことをする。もちろん一年生の時に仲良かった彼女とも休憩時間に何度か言葉を交わし、ついでに数年間話せなかった彼とも久しぶりに言葉を交わした。二人にとっての私はまさに「良い人」で、一方は恋のキューピットとして、もう一方は幼馴染として、私に優しくしてくれた。それが余計に辛かった。短い夏期講習の間、いつの間にか”仲良し”の三人グループになっていて、私は二人に一番近い存在になった。冷房が効いている教室で寒気を感じ、喉の奥が詰まるような気がした。なんとなく続く、灰色の息苦しさ。それを開放してくれたのは先生の講習の終わりの挨拶だった。でも、完全に開放されたわけではなかった。


「今晩さ、花火しない?」


 彼女が彼に楽しそうにそう言い、多分ついでに私にも同じ質問をぶつけてきた。


「いいね! じゃあ、今井の家でやろうよ。今井んち、庭も縁側もあるし、小さい頃一緒に花火したことあるんだ。今井も、良いよな?」


 彼女の眉毛が一瞬動いて、いつも輝いているような目の光を一瞬だけ曇らせたのが見えた。それは地雷だよ。


「え、由佳ちゃんと太一って、小さい頃から知り合いだったんだ」


「あれ? 陽菜子に言ってなかったっけ? 今井は俺の幼馴染だよ」

「ごめんね。隠すつもりはなかったんだけどね」


 口角は上がっているけど目は笑っていない。彼女はふーんとだけ言って、話題を今晩の集合時間に切り替えた。苗字で呼ばれて地味に傷つきながら、なんでこんな天気の日に花火なんだろうと思ったが、確認してみるとたしかに夕立は降るけど夜には上がってくれるらしい。二人で一緒に帰る後ろ姿を見ながら、私はひとつ、大きなため息を吐いた。


 夕立は来なかった。でも、この夏には珍しいくらい、空は分厚い雲のせいですぐに暗くなった。私は一応、庭と縁側を掃除しておいて、倉庫から古いバケツを取り出して水を張っておいた。ろうそくと花火は二人で買ってきてくれるらしい。このまま雨が降らなければ良いけど。


 二人はコンビニで軽めの晩御飯と花火とろうそくを買って、うちにやってきた。彼がうちに来るのはもう何年ぶりだろう。「こんなに狭かったっけ」なんて無邪気に笑う彼に、彼女はまた口先だけで笑った。


 彼がろうそくにライターで火を付ける。彼女が嬉しそうに花火を選ぶ。やっぱり絵になる二人だよなぁと、縁側に座ってペットボトルのお茶を飲む私。「今井もこっちに来いよ」って、苗字で呼んでくる彼に嬉しさ半分、悔しさ半分で近づき、私も彼から火を分けてもらった。一瞬で吹き出す白い閃光。驚いてのけぞると、ふたりとも微笑んでくれた。花火でハートを描く彼女を写真に収める彼。そのハートに二人で入りなよ、と背中を押してしまう私。火薬の香ばしい匂いに包まれて、花火の強い光に照らされる二人をカメラ越しに見ていると、鼻先がツーンとなる気がした。


 と、そこに冷たい何かが落ちてきた。遅れてきた夕立が、ひとつ、ふたつとポタポタ降ってきて、やがて夢中で縁側に避難するほどのまとまった雨になった。残念がる彼女に、突然のハプニングになんだか楽しそうな彼。私は二人に貸すためにタオルを持ってきたが、渡そうとした時に、二人の顔の距離が近くなっているところを見てしまった。一瞬だったけど、一瞬には感じられない、灰色のロスタイム。私は頃合いを見計らって、「ごめんごめん、綺麗なタオルが奥の方にしまってあったからさぁ」と無邪気なふりをして現場に戻った。彼女と彼の距離が少し離れていたから、ちょうどその間に私が収まれば完璧なんだろうけど、私にはそんな事できずに、彼の横に距離を開けて座った。


 三人共、微妙な距離感で雨があがるのをひたすら待った。沈黙に耐えかねてか、彼が口を開く。

「涼しいね」

 サムいよ。私、何のためにこんなところでこんなことしてるんだろう。


 降り続く雨。消火用に水を張ったバケツに、どんどん雨水が溜まっていく。微かな火薬の乾いた匂いに混ざる、湿った雨の匂い。泣いてしまわないように空を見上げ、バレてしまわないように暗い方を向いた。小さい頃と同じ匂い。彼と一緒にした花火の思い出が蘇ってきて、胸が苦しくなる。


 バケツからとうとう水が溢れ出した。私の心も決壊寸前で、舌先に唾液が集まってくる。彼が後ろに手をついて彼女と話している。もうもはや何を話しているのかなんて耳に入ってこない。ただ雨が地面を叩き続ける音だけが、私を衝動に駆らせてくる。彼の手を握りたくて、左手の指を一歩、また一歩と歩ませた。顔はそっぽを向いて、手だけが確実に彼に近づいていく。一歩。また一歩。舌先に唾液が集まってくる。胸が苦しくなる。ちらっと彼の方を見やる。あと数歩で、届いてしまう。だから一瞬、躊躇した。その瞬間、彼が右手で自分の鼻をくすぐった。伸びていた手が一瞬ダンゴムシのようにこわばる。そして、そのまま自分の方に引き寄せた。我に返ってはじめて鼓動が早くなっていることに気がついた。だめだ。出ちゃう。中学の時に芽生えてしまった思いが、こんな最悪のタイミングで飛び出してきそうになる。重心のせいでバケツからこぼれ落ちたさっきの手持ち花火がポタッと地面に落ちた瞬間、私の中で何かが溢れた。


「あのさ」


 二人の会話を邪魔するように、私の声が縁側を真っ直ぐ突き進む。そこで満足したわけではないけど、そこから先、どう言えば良いのか分からなくなって、空白ができた。私は焦ってその空白を埋めようと頭の中をほじくり返そうとするが、溢れすぎて止まらない。だから、私は。


「あの、もうこの雨、止みそうにないよ。うん。風邪引いちゃ大変だしね、うん。このへんでお開きにしようか。あの、私が片付けしとくからさ、二人は早く家に帰ってお風呂に入りなよ。ね」


 誤魔化すことしかできなかった。夏の匂いがする中、二人が相合い傘で帰っていくから手を振った。そのままその手を雨にかざして、目元に持っていった。

 これは雨水。これは雨水。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] >イメージソング:大塚愛「金魚花火」 ↑ そんな感じですねー。 最後の1行が切ない……。
2024/05/24 19:28 退会済み
管理
[良い点] はじめまして。 XIと申します。 島猫。様という方の紹介で参りました。 感想、失礼いたします。 目を見張るほど豊かな表現力で描かれている、切ない片想いの物語。 素晴らしかったです。 …
[良い点] 初めまして、竹目と申します。 とっても瑞々しく美しい描写の青春劇で、読了後切なさで一杯になりました。 二人の幸せを願う気持ちと、隠したままの自分の気持ちとが揺れる天秤のようで終始目が離せな…
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