プロローグ(託された思い)
――「上へ行きたい」――
それだけが、この氷の壁「デルタ」に四方と空を閉ざされた世界に生きる僕の夢だった。特別な意味なんてものがあるわけではない。只々この現実から、世界から、そして自分自身から逃げ出せる場所であればどこでも良かった。誰も愛していない、誰も期待していない。いてもいなくても一緒、誰にとっても必要不可欠な存在じゃない。僕が誰かの必要な存在になるためには、この世界にいるべきじゃない。
だから、僕は
――「上に行きたい」――
上に行けば自由がある。
「そんなものはない、ここ以上の束縛がまっている。」
え。
上に行けば希望がある。
「そんなものはない、皆見えない絶望に怯えながら生きている。」
え、なんだ。
上に行けば未来がある。
「そんなものはない、過去の過ちを永遠に繰り返して、未来になんか一歩も進んでない。」
なんですか!急に割り込んできて。
上に、上に行けば…………………きっと何かある。
「……何もないよ。お前が期待するものは何もない。
けどな、何も無くてもお前も俺も上に行かなくちゃいけない。...絶対に」
なんで、そんなこと君に分かるんですか。
君はだれですか?
なんで姿を見せないのですか?
「分かるも何も、長い間見てきたからさ。」
何言ってるんですか。氷の外を見た人は、「デルタ」の外を見た人は、歴史上この世界には一人たりともいませんよ。
「だろうな。お前の知っている限りではそういう結論になるだろうな。」
何なんだこの人は。まあどう考えてもここは夢の中だろうし、会話なんて成り立つはずがないか。ていうか喋ってないのになんで会話できてるんだろう。
「まあ、俺の話だけじゃ信じられるわけもないだろうし、自分の目で確かめたほうが早いだろ。」
出来るならそれが一番ですけどね。ってそうじゃなくて、あの本当に一体君は?
そう訊ねようと手を伸ばした瞬間、視界が光に包まれぼくは意識を失った。
「またな」
最後に一言誰かがつぶやいた。
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「り……」
ん、んー
「りと……」
ん、なんだ?まだ、夢の中なの?
「りと!……………」
何か聞こえる、音?いや、人間の声だ。
僕は今どこにいるのだろう、さっきの声とは別の声だ。
なぜか体が動かせないので、必死に聴覚に神経を集中させる。
水の揺れる音がする。おそらくボートか何かに乗っているのだろう、ならここは湖だろうか?
少しずつ意識がはっきりしてきた。
「っ………」
声を出そうとした瞬間、突然中背中肉の男が僕に覆いかぶさる。男の顔は水面からの光の反射がちょうど顔に当たってよく見えない。だが、声の雰囲気や腕や足の太さから年上なことは間違いないだろう。
「分かってくれ!いつか…………お前を………」
男が必死に何かを伝えているが、これは僕に伝えているのだろうか。確かに男の血走った両眼は僕を見ている。ただ、僕にはどうしてもその眼が、僕じゃない誰かを見ている気がしてならなかった。ここには僕とこの男の二人だけ。なのになんでだろう、こんなに近くにいるこの男が果てしなく遠い存在にしか見えなかった。
「っ………」
僕も男の呼びかけに声を返そうとする。しかし声が出ない。
「あとは頼んだぞ! りと」
一方的に男はしゃべり続けた。僕の名前を呼んでいるのに、僕の目をみているのに、僕は全く何も感じない。いわばそれは、僕じゃない誰かとこの男が僕の体を通して会話しているようなものだった。今までの人生を振り返っても経験したことの無い、恐ろしく気持ちの悪い感覚だった。
再び眼前が光に包まれ始める。僕はこの気持ち悪さから解放されることに安堵して、それに抗うことなく静かに眼を閉じた。
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パーパラッパー、パーパラッパー、パーパラッパパパ―
ラッパの音が聞こえる。やっと聞き覚えのある音だ。どうやらやっと夢から覚めたらしい。
毎朝うるさく感じていた、隣の家のベスおじさんのラッパの練習が僕を悪夢から救ってくれるとは思わなかった。今度会ったらお礼を言わなきゃ。
「起きてきなさいーー。リトーーーー!!」
下から僕を呼ぶお母さんの声が聞こえた。
時間はちょうど、8時。
大きな蹴伸びを一つしてから僕は目を覚ました。