第1話 直球勝負
春彦が生まれる2年前に、舞は夫となる春繁と結婚する。
二人が結婚して1年経ったある日のこと。
「ねえ、あなた。
悠美が、また、土曜日に泊りに来たいって言っているのだけど。
いいかしら?」
舞が、少し困った顔をしながら春繁に尋ねる。
「ああ、いいよ。
次の日は、日曜日で休みだし。」
「ごめんね、日曜日しか休みないのに、ゆっくり休めないわよね。」
「まあ、いいさ。
悠美が来たいっていうなら、歓迎するよ。」
「本当に、ごめんなさい。
でも、ありがとう。
悠美のことを可愛がってくれて。」
「でも、すごいよね。」
「なにが?」
「だって、悠美って、小学校に上がってばかりの小1だろ?
それなのに、いくら、叔母さんの家だっていっても、平気で泊りに来るのだから。」
「そうね…。
それだけ、あなたの魅力が優っているのかしら。」
舞は、ニヤニヤしながら言った。
「おいおい。」
春繁は、困ったように頭をかいていた。
舞と付き合い始め、初めて悠美や悠美の兄の光一にあった春繁は、なぜか、初対面の子供たちに好かれ、特に悠美は春繁にべったりだった。
そして、舞と春繁が結婚し、アパート暮らしを始めてからは、さらにエスカレートし、度々、悠美は泊りに来るようになった。
光一は、悠美と一緒に泊まりに来たい反面、枕が変わると眠れない性格だったので、悠美ほど頻繁には泊りには来なかった。
しかし、悠美を迎えに来ると行く口実で、悠美が泊まった翌日の朝早く、光一はアパートに遊びに来るのが常だった。
「じゃあ、今回、光一君は?」
「光一は、翌日コースよ。
泊まるのは、悠美だけ。」
「光一君も面白いな。
もう、いい加減に我が家も慣れたのじゃないないかな。」
「もう、そんなこと言って。
こんな狭いアパートに、悠美だけじゃなく、光一まで来たら寝るところがなくなっちゃうじゃない。」
舞は、苦笑いをした。
二人は結婚する時、すべて自分たちだけの力で生活すると、2DKのアパートを借りて新婚生活をスタートさせた。
生活費は、春繁の給料と、舞のパート代で贅沢ではないが、それなりの暮らしが出来ていた。
舞のパートは、翻訳の仕事で、その独特な日本語の使い回しで結構評判がよく、平均的なパート代よりも多く定期的に収入があった。
「そうだよな。
この前は、眠っている顔を、悠美の脚が襲って来たもんな。」
「あっ、それは単に悠美の寝相が悪いだけ。
一人で泊りに来ても、あちこち蹴られているじゃない。
光一なんて、気を付けしながら寝ているのに。」
「ああ、そうだった。
悠美の方が、寝相は悪いな。
でも、お前も褒められたもんじゃないよ。
悠美と一緒に、布団の上をぐるぐる回って追いかけっこしているもんな。」
「えー、私、そんなに寝相悪くないよー。」
舞が、抗議交じりに言った。
「でも、不思議よね。
なんであなたって、あんなに二人になつかれているのでしょ。
悠美なんて、初めてあなたに会った瞬間に、もじもじしながら近づいて行ったもんね。」
「そうそう、それで、いきなり手を握られて、『あそぼ』だもんな。」
春繁は、愉快そうに笑った。
「ほんとうよ。
周りの人たち、いきなりで皆、“口ぱかーん”だったものね。」
舞も楽しそうに言った。
「しかも、あなたったら、すぐ遊んであげて。
私を放置したんだもんね。」
「あははは、そうだった。
肝心の舞を放って、悠美とおままごとしていたもんな。」
二人は、お腹を抱えて笑いあった。
「でも、あなたも、子供に合わせるの、上手よね。」
「まあね。
子供は、大好きだからね。
悠美や光一君、二人とも自分の子供の様に可愛いよ。」
「ふふふ、そういうあなただから、私は好きなの。」
舞は、そういう春繁が好きだった。
「じゃあ、明日の夜、悠美が来るなら、我家の子作りは、今晩いかがかな?」
「もう、バカ。」
舞は、少し、はにかんで答えた。
「いいに、決まっているじゃない。」
次の日、春繁は会社に行く前に舞に話しかけた。
「今夜は、悠美の好きな卵焼きとカレーかな?」
「そうね、定番の悠美スペシャルかしら。
あ、あなた、それじゃなくて違うのが食べたいのじゃない?
無理に悠美に合わせる必要ないんだからね。
何か違うのを作りましょうか?」
「いや、いいよ。
お前のカレーや卵焼きは天下一品。
逆に、それを楽しみに、お腹空かせて帰ってくるから、たくさん作って置いてくれ。」
舞には、それがお世辞でないことがわかっているので、思わず笑顔になった。
「わかったわ。
たくさん作って置くから、楽しみに帰ってきてね。」
「ああ。
舞、愛してるよ。」
春繁は、そう言うとひょいと、舞の唇に自分の唇を重ねた。
「じゃあ、行ってくるね。」
「いってらっしゃい。」
舞は全力の笑顔で春繁を送り出す。
春繁は、普通の会社員で、舞とは大学のサークルで知り合った先輩、後輩の間柄。
お互いがお互いを一目惚れというパターンで、サークルでの自己紹介の時、すでにお互いを
意識し、新歓コンパのとき、酔いつぶれた舞を快方したことから、一気に二人の距離は縮まった。
それは、新歓コンパといっても少し遅い6月のある日のこと。
発端は、舞が春繁を夢中になって眺めるあまり、他の先輩たちからつがれるお酒を考えずに言われるまま飲み干していったのが原因だった。
春繁の方も舞を気にして、お酒もあまり飲めず、舞の方をちらちらと舞に気づかれないように見ていたが、途中から、言われるままに杯を空けていく舞をハラハラしながら見ていた。
「おい、あの娘、まだ二十歳前だろう?
あんなに飲ましちゃだめだよ。」
「何言ってんだよ。
立花はいつからそんなにお堅くなったんだ?」
春繁は、隣の席の友人に言ったが、軽くいなされてしまった。
「それに、あんな可愛い子、ほっとく男がいるのか?」
「でも、具合が悪くなってからじゃ、遅いだろう。」
春繁は、我慢できなくなり、舞の傍に行って、飲むのを止めさせようとしたのだが、状況はすでに遅かった。
「おい、新人の女の子にそんなに飲ませたらだめだろう。
君、大丈夫か?」
春繁は、心配そうに舞の顔を覗き込んだ。
舞は、春繁の顔が目の前に現れたのに、どきっとして、一気に酔いが回ってしまった。
「ああ、はるひげせんぱい…。」
一言発したまま、くたっと、春繁にもたれかかった。
「おい、大丈夫か?
南雲さん?」
周りのものたちも心配そうに寄ってきた。
「大丈夫か?」
「まさか、急性アルコール中毒じゃないか?」
「まずいよ、だれが、こんなに飲ませたんだ?」
周りがざわつく中、春繁は舞の顔を覗き込むと、舞はうれしそうな顔をして、寝息を立てていた。
「寝てる。」
春繁がひとこと漏らすと、周りにいたサークルの部員から安堵の声があがった。
「まったく、信じられない。」
「いい心配したよ。」
「でも、そもそも、お前が飲ませすぎたのが原因だろう。」
周りで喧々諤々がはじまった。
その中の部長格の男性が、春繁に声をかけた。
「立花、悪い。
その娘、家まで送って行ってくれ。」
春繁は、ここぞとばかりに頷いた。
但し、そこから連れて帰るのだが、舞は泥水状態で寝てしまっており、数人で協力し、舞を春繁に背負わせた。
泥水状態の人間は、たとえ体重が軽くても、その数倍、重くなるので、数人がかりだった。
春繁も、舞の重さに足元をふらつかせながら、何とか歩くことができた。
「と、それはいいけど、この娘の家は?」
「学生証に書いてあるだろう。
それ見て、タクシー使って送って行ってな。
俺たち、まだ、しばらく、ここで飲んでいるから。」
「じゃあ、よろしく。」
他のサークルの部員は、春繁に手を振ってお店に戻っていった。
「おいおい、こっちは、手がふさがってるんだよ。
あーあ、だめだ、あいつらも酔っぱらっていやがるわ。」
春繁は、仕方がなく、舞を背負ったまま、当てもなく歩き始めた。
「この娘、なんかいい匂いだな。」
春繁は、背中に背をわれている舞からほんのり石鹸の匂いがして、そう思った。
心地よい風が吹いている中を少し歩いていると、「ううん」と背中の舞が声を上げた。
「南雲さん、大丈夫?」
春繁は、すかさず、声をかけた。
「うーん、気持ち悪い…。」
その舞の声に春繁は、真っ青になった。
「まずい、これは、まずいぞ。
どこか、休ませるところはないか…。」
春繁は、思いっきりうろたえながらまわりを見渡し、公園が傍にあることを発見し、急いで公園に行き、ベンチに舞を座らせた。
その頃になると舞は、だいぶ、意識がはっきりしてきたのか、自分の力でベンチに座った。
「何か飲むもの買ってくるから、待っててね。」
「あい。」
舞は、まだ、呂律が回っていなかった。
春繁が、近くの自動販売機から冷たいお茶を買ってきて、舞に手渡す。
「ありがと…。」
舞は、お茶を受け取ると、ごくごくと飲み始め、春繁は、心配そうに舞を見ているだけだった。
しばらくして、舞は落ち着いて来たのか、顔色も良くなり、目線もしっかりしてくる。
「立花先輩…。
私、先輩に迷惑を掛けちゃいましたか?」
急に、舞がすまなそうな顔をして、春繁にたずねた。
「いや、大丈夫だよ。
ただ、飲みすぎて、寝込んじゃったのを、僕が連れて帰ることになったんだけど、南雲さんの家、知らなかったので、どうしようかと途方に暮れていたところだった。」
「ああ、やっぱり、私、迷惑を掛けていたんじゃないですか。
先輩、ごめんなさい。
バッグの中を開けて、学生証に書いてある住所を見てくれればよかったのに。
で、タクシーに放りこんでくれれば…。」
春繁は笑いながら、舞を制した。
「そんなことできる訳ないだろう。
ましては、好きな女の子のバックの中を勝手にみて、タクシーに突っ込むなんてこと。」
「え?
今なんて?」
「え?」
春繁は、「好きな女の子」と思わず漏らしたことに気が付き、「しまった」と思った。
春繁は、舞の方を見ると、舞はうつむいていた。
「あ、ごめん、ごめん、そんな意味じゃなくて。」
言い訳をし始めた春繁を今度は、舞が制した。
「先輩。
そういう意味じゃないってどういう意味ですか。」
顔を上げ、まっすぐに春繁の顔を正面から見据える舞に春繁は、どきまぎして言葉が出なかった。
「私、好きな女の子って言われて、すごく嬉しかったんです。
それなのに、そういう意味じゃないっていうのは、どういう意味なんですか?
先輩、答えてください。」
見ると、舞はいっぱいに涙をためていた。
春繁は、そっと、舞の頭をそっと手で撫でた。
「悪い、悪い。
こんなにお酒の入っている状況だったんでね。」
「で、私のこと、本当は、どう思っているんですか?
私は、立花先輩のこと、大好きです。
まだ、1か月位しか先輩と話をしていませんが。
先輩、優しいし…。」
いきなりの舞からの告白に、春繁は、鼻の頭を人差し指でかいた。
そして、一呼吸おいて、話しかけようと舞を見ると、舞はこれ以上ないほどの真剣な顔で春繁を見つめていた。
「ごほん」
春繁は照れ隠しに、咳払いを一つする。
「僕も、初めて会った時から南雲さんのこと好きだったよ。
一目惚れってやつ。
そして、同じように、まだ1か月だけど、どんどん、好きが膨らんできている。
ああ、この娘は思った通りの娘だって。」
舞は、春繁の言葉をうっとりとした顔で聞いていた。
「せんぱい。
うれしい…。」
ことんと、舞は、春繁に頭をぶつけてきて寝息を立てはじめた。
今度こそ、安心し切った顔をして。
「おい?
南雲くん?
おーい、寝るなー。
まだ、住所聞いていないよ。」
夜は、幸せな二人を包んで更けていく。
そのあと、何とか春繁は舞を起こし、住所を聞き出し、タクシーで家まで舞を送って行った。
家に着くと、舞の両親は、こんなに飲ませてと、かんかんに怒っていた。
春繁は、ひたすら、頭を下げその場を後にする。
翌日、春繁が大学の食堂で昼食を食べていると、誰かが寄ってきて言った。
「先輩、一緒にいいですか?」
顔を上げると、舞がランチのトレイを持って立っていた。
舞の顔は、これ以上ないというほど、すまなそうな顔をしていた。
「ああ、いいよ。」
春繁は、にこやかに笑って、舞に席に座るように促した。
舞は、そんな春繁の笑顔にほっとして、席に着いた。
「先輩、昨日はすみませんでした。
あの後、両親から聞いたのですが、両親、特に父が先輩を飲ませた張本人だと勘違いして怒ったんですって?
それを聞いて、先輩は私を快方して、しかも家まで送り届けてくれた人なんだからと叱っておきました。
ついでに、絶交してきました。」
「絶交って、おいおい…。」
どこまでも真っ直ぐな娘なんだろうと、春繁は感心した。
「で、先輩。
あの、昨日の話しは…。」
急に舞はしおらしくなって、春繁に尋ねた。
舞の急な豹変に、春繁は慌てたが、まっすぐ、舞を見て笑顔で答えた。
「昨日の話しは、本当。
君は?」
今度は、舞の方が真っ赤になり、うつむきがちになりながら言った。
「私も、本当です。」
ふう、と春彦は、息をついた。
そして、精一杯の笑顔を舞に見せた。
「じゃあ、よかった。
これから、よろしくね。」
「はい。」
舞も元気よく答えた。
「さあ、胸のつかえが下りたところで、ご飯、ご飯。」
「はい。」
「あと、お父さんとの絶交は解除しておいてね。」
「はい、でも、あのー。」
「ん?
なに?」
舞は“もじもじ”しながら、春繁の食べているものを眺めていた。
「先輩、先輩は何を食べているんですか?」
「え?
ああ、コロッケカレーだよ。」
舞は、なお一層“もじもじ”と、春繁の目を見ないようにして言った。
「先輩、そのコロッケ、あの、半分、いや、4分の一、いや、一口でいいのでいただけませんか?」
「?」
春繁は、初めて舞のトレイの上に乗っているものを眺めた。
そこには、ご飯が盛ってある茶碗しかなかった。
「父と喧嘩して、家を飛び出したのはいいのですが、その、お財布を忘れちゃって…。
ポケットに入っていた小銭だと、これしか買えなくて。
でも、お腹が空いちゃって…。」
舞は、真っ赤な顔をしてうつむいていた。
「ぷっ。
あはははは。」
春繁は思わず吹き出して笑った。
舞は、なお一層、小さくなっていた。
「ごめん、ごめん。
あまりに可笑しかったから。
お詫びにお茶碗出して。」
舞が言われた通りお茶碗を出すと、春繁はその上にコロッケをまるまる1個乗せた。
「え?
先輩のコロッケは?」
舞は驚いて、春繁の顔を見つめた。
春繁は、優しいほほえみを浮かべていた。
「僕は、カレーがあるから大丈夫。
それより、コロッケまだかじっていないから安心して。
あと、カレーが付いているのは、おまけっていうことで。」
「先輩。」
舞は、春繁の優しさに思わずじーんとなっていた。
「先輩、ありがとうございます。
先輩のコロッケなら、例え齧ってあっても、歯形が付いていてもオッケーです。」
「そんな、大げさな。
あっ、ちょっと待ってて。」
春繁は、そういうと席を立ち、自動販売機の方に向かった。
しばらくして戻ってくると、手にお茶のペットボトルを持っていた。
そして席に着くと、そのペットボトルを舞の前に置いた。
「お金がないと、飲み物も困るだろう。
これ、おごりね。」
「先輩…。」
舞は感激一杯の顔をして、春繁を眺めていた。