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アイネ・グロース・モーゲン・ムジーク

暗くなった藍音の部屋、枕元で私は、藍音にギターをプレゼントした時のことを思い出していた。


あの日は午後から、二人で楽器屋に行った。ぞろぞろと並ぶギターに藍音は目を輝かせていて、私は柄にもなく「藍音、かわいいな」と思ったような気がする。始めて姉らしいことができたな、と興奮していた節もあったのかもしれない。


どのギターが一番欲しいのかと聞いて、藍音が申し訳なさげに「これ」と言ったギターが、一〇万円以上していて冷や汗をかいたが、腹をくくった。今後誰かのためにお金を使うこともそうないだろうと思ったし、何より、藍音は私の妹なのだから、と思った。それで結局、私は藍音に一七万円のギターをプレゼントした。


家に帰ってから藍音は、満面の笑みを浮かべていた。「一生大切にするね」と子供みたいにはしゃいで、曲にもなっていない曲のようなものを、じゃかじゃかと鳴らしていたのだった。そこでまた私は、柄にもなく「藍音、かわいいな」と思って、その晩気持ちよく眠ったのだった。


藍音は、ベッドで寝ている。私はその横に布団を敷いて寝ている。自分の部屋で寝るという選択肢は当然あったが、今夜は藍音と一緒に寝てやるべきだと思った。


私はこちらに背中を向けて寝ている藍音を見ながら、きゅっと胸が締め付けられるような、不思議な感覚を覚えていた。出口を求めた感情が固い壁に阻まれて出られないような、そんな感覚。胸騒ぎ。こんな感覚は小学生の時以来、抱いていなかったな、とぼんやり思う。


「ねえ、お姉ちゃん」

「何?」

「わたしって、何のために生まれてきたのかな?」

 藍音の声が聞えた。

夜にも関わらず、虫が鳴いている。アブラゼミか、ミンミンゼミか、おそらく蝉の類いだろうが、今はそれを判断できる気がしなかった。


藍音との時間を思い出してみる。

母が眠った後、急いで藍音をキッチンに連れて行ってご飯を食べさせた夜。

「わたしもう死にたい」と言って、私にいじめの相談してきた夜。

そして、嬉しそうにギターを搔き鳴らして「他所でやんなさい」と母に怒られ、二人でひそかに中指を立てた夜。


思い返せば、私と藍音の過ごしてきた時間は、どれも無条件に楽しい時間ではなくて、それでも条件付きで楽しい時間もやっぱりあって、だからこそ今は、藍音が私の妹で良かったなと思う。


しかしそうだったとしても、私にも私の人生はあるわけで、たとえその人生になんら意味がなかったとしても、私があの母に育てられた娘である以上、最低限の「世間体」というのは嫌でも染み付いているわけで、結局私は、藍音のために自分のすべてを投げ打てるほど、肝が座っていないのだ。そんな自分に時々嫌気が差すことはあるのだけれど、私は嫌気が差したからと言ってどうもしないわけで、それがある意味私の人生で、良くも悪くも私はそういう人間なのかもしれない。


はっきり言えば、私は自分のことが嫌いだった。散々嫌っていた母が命より大切にしてきた「世間体」を無意識に大切にして、自分が何者かもわからないまま「楠本紫音」という人間を演じて、そんなことをやっている間に本当に自分がやりたいことがかわからなくなってしまって、一丁前に結局また、自己嫌悪に駆られるのだ。


だから、せめて、藍音には。彼女が母に頬を叩かれたその日から、私はずっとそんなことを思って生きてきた。だから、せめて。


「藍音の好きなように生きたら良いよ」

私から藍音に言えるのは、これくらいだと思う。

「藍音は、間違ってないから」

そう言うと、藍音の背中が少し丸まって、鼻をすする音が聞こえてきた。本当に可愛い奴だな、とまた思う。そしてやはり、藍音が妹で良かったな、とも思った。


「ありがとう」と声が聞こえる。私はその声を聞いて泣きそうになって、胸がきゅっと縮こまるような懐かしい感覚を味わった。涙は、出なかった。



私は一人、のうのうと道を歩いている。見覚えのある道だ。最寄り駅から実家への帰路かもしれない。コンビニ、整形外科、定食屋。見慣れた風景だった。


歩いていると、やがて公園が見えてきた。藍音と話した公園―――高台にあって、街を一望できる、あの公園だ。


私はなんだか歩き疲れている感じがしたので、公園に入ってベンチに腰掛けた。すると隣には、何故だか藍音がいた。私はそれに、どういうわけか驚かなかった。


「かわいいでしょ?」

藍音は眠った赤ん坊を抱いていた。生後数日といったところであろうか。まだ小さく、心許ない感じがしたが、やはり神秘的に可愛かった。

「一人で、産んだんだ」

藍音が言って、突然涙を流す。そうして私の手を取って、赤ん坊の胸のあたりにそれを当てた。

「脈がないんだよね、この子。わたしが殺しちゃったのかな……?」

藍音は肩を震わせた。私にはどうすることもできないが、とりあえず、私は彼女の背中をさすってやろうと思い、自分の手を持っていった。しかし、私の手にはいつの間にか、窓辺で見た黒い猫の置物が握られており、私は図らずもそれで、藍音の背中を刺してしまった。感触はない。ただ、藍音が少し幸せそうな顔をして、しかし、どぼどぼと血を流しているだけだった。


私はその光景が信じられなくて、泣いた。目元が熱くなっている感覚がある。わけがわからないが、とりあえず悲しいという感情だけがあった。そして、「藍音」と叫びそうになり、口を開けようとしたところで、耳をつんざくような、鋭く大きな音が聞こえてきた。耳が痛くなった。目が覚める。いったい、何の音だろうか。


気がつくと、私は藍音の部屋、敷布団の上でしゃっくりをしていた。なんだ、夢か。そんなことを思っているとまた、耳をつんざくような爆音が聞えてきた。私はびっくりして部屋を見回す。外はまだ少し暗い。窓際にあった猫の置物がなくなっている。本棚の横のギターは、いつのまにか私の横にいる藍音が、肩から下げていた。


「お姉ちゃん、わたし弾くよ」

藍音がそう言って、私の方を見た。その表情は、部屋が暗くてよく見えなかった。それがもどかしい。

「アイネ・グロース・モーゲン・ムジーク」

そう言った次の瞬間には、藍音はピックを持った右手を思い切り振っていた。また、ギターの爆音が響く。

部屋がぶっ壊れるのではないかと思った。この爆音が具現化したら、部屋は吹き飛んでしまうのではないかと思った。藍音の鳴らしたギターの音は、それくらい大きい。その証拠に私の聴覚は、おそらく一時的なのだろうけど、すでに半分吹き飛んでいた。


「わたし、決めたんだ」

藍音がこちらをじっと見つめてくる。しかしそれでも、彼女の正確な表情は見て取れない。

「わたし、お姉ちゃんの言ったように、自分の好きなように生きるって、決めたんだ」

藍音はそこまで言って、暗闇でもわかるくらの、満面の笑みを浮かべた。目を細め、口角を自然にぐっと上げ、心底嬉しそうに、笑っている。

私はその笑顔を見て、図らずもあの時のことを思い出してしまった。私がギターをプレゼントして、家に帰って来てから見せた、あの時、あの笑顔だ。

私はそこで、胸がきゅっと締め付けられるのを感じた。

「だってお姉ちゃん、わたしは、間違ってないんだもんね?」

違う、そうじゃない。私は敷布団の上、すっと全身が冷えて力が抜けていくのを感じた。

「これは決意のギターだから。お姉ちゃんには、最後まで聞いてもらいたいな」


――――――アイネ・グロース・モーゲン・ムジーク。


藍音が、右腕を大きく振りかぶる。そして次の瞬間、私のもう半分の聴覚と、もっと大事な何かが、いっぺんに吹き飛んでいくのを感じた。そして脳裏に、満面の笑みを浮かべる藍音の顔が浮かぶ。悲しいなと思った。


藍音は頭を振って、跳ねて、踊るように、弾いていた。

私はそれを見て、胸が締め付けられる思いだったが、ギターを弾く彼女から目を離すことができなかった。ギターを弾く藍音が、本当に楽しそうで、本当に幸せそうなのだ。こんなに幸せそうな藍音を見るのはいったい、いつ以来なのだろうか。それはおそらく、ギターを買ってやったあの日なのだろうけど、だからといって私は、どうしたら良いのか、もうわからなくなってしまった。


部屋の扉が叩かれた、ような気がした。藍音はいつの間にか、部屋の鍵を閉めていたらしい。どんどん、と強く扉が叩かれるのを、私は振動として感じ、まずいな、と回っていない頭でぼんやり思った。

藍音は踊り、ギターを弾く。大きな朝の歌。その爆音が、部屋中に響き渡る。


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