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公園

実家の近くには少し大きな公園があって、その公園は駅からの帰路の途中にあるのだけれど、藍音が「ちょっと公園で話さない?」と言ってきたのは、その前を通りかかった時―――太陽も落ちかけた、夕暮れの空が広がっている時だった。


「別に良いよ」

「ありがとう」

そんな会話の後、私たちは公園の中に入って、入り口付近のベンチに座る。夕暮れの公園には、私たちの他に誰もいなかった。


ベンチに座ったものの、私と藍音との間に特段の会話はなかった。駅からの道中も藍音は黙っていたが、それは公園に入っても変わらない。私は藍音が口を開くのを待った。不用意な発言で彼女を傷つけるのが怖かった。


「あの、お姉ちゃん……」

藍音が消え入りそうな声を出す。

「……何?」

「あの……ちょっと、重い話、しても良いかな?」

藍音の声は相変わらず、消え入りそうなほど小さい。

「良いよ。ちゃんと聞く」

藍音の顔をちゃんと見ることはできなかったが、私はそうとだけ答えた。すると、地面に写っていた藍音の影が、ゆっくりと頷くのが見えた。


「お姉ちゃんに会ったら、お姉ちゃんには話そうと思ってたんだよね」



「二週目といったところでしょうか」

眼鏡をかけた産婦人科医が、そう言い切って、MRIの映像を見せてくる。画面には、ぴくりと動く黒い丸が、はっきりと映っていた。


「性別はわかりませんが、経過は良好です」

わたしは吐き気を覚えた。頭が呆然として、考えるべきことはきっとたくさんあるのだろうけれど、頭が麻痺している感じがした。何も考えられない。

手が痺れている。ベロの先が痒い。頭がきゅっとする。もう、どうしたら良いかわからなかった。

頭が、真っ白になる感じがした。


病院を出て、家に帰る。医者の話だと、手術を受けるためには両親の許可が必要だということだったが、そんなのは取れるはずがなかった。母親とはしばらくまともに口をきいていないし、父親は単身赴任で今どこにいるのかもわからない。そもそも、わたしは両親から存在をなかったことにされている。


とりあえずと、自分の部屋に上がった。一回考えを整理してみようと思った。そうすれば、どうすべきかが見えてくるかもしれない。しかし、部屋に入るなり、達也からもらった黒猫の置物が目に入って、わたしはたまらなくなって、その場にへたり込んだ。


「こんなんしかあげられないけど」とわたしの誕生日に猫の置物をくれた達也の声が、達也が鳴らすムスタングの荒々しいギターサウンドが、頭の中に響いて、涙が止まらなくなってしまった。


こんなことになるなら、初めから出会わなければ、と思った。一生達也のことなんて知らないままで、のうのうと、母に飼い殺されて生きるのも、それはそれで悪くなかったのかもしれない。

小学校の頃に、塾をやめたいと母親に言ったことがある。すると母親は、わたしの頬を叩いて、「あんたら姉妹は!」とわたしに迫った。そうして「なんであんたらは朱音を見習わないの!」と大声を出すと、母親はわたしの頰はまた叩いた。頰は腫れ上がった。痛くて、つらくて、怖くて、悲しかった。


それから数日間、わたしは母親からご飯を与えてもらえなかった。しかしお姉ちゃん―――紫音は、わたしにご飯をくれた。自分の分を少し残して、母親にばれないようにわたしに分けてくれたのだ。

今思えば、その時に紫音が言った「藍音は間違ってないから」という言葉が、わたしの人生を良くも悪くも、変えてしまったのかもしれない。わたしは紫音の言葉に勇気をもらったのは間違いないのだけれど、その勇気はあくまで母親に反抗する勇気であって、それがそっくりそのまま人生を好転させるものとは限らなかったのだろう。


それからわたしは、何度も母親に反抗し、頰を叩かれ、その度にまた反抗した。その結果、結局塾をやめることになり、それ以降わたしは母親から存在をなかったことにされ、まともに口を聞かなくなった。


あの時紫音がご飯を分けくれていなければ、わたしはきっとギターを始めていなかっただろう。達也にも会うことはなかっただろう。その方が良かったのかは今となってはわからないが、しかしそれでも、もしあの日あの時、紫音がご飯を残さず食べていれば、きっと、きっと、きっと……わたしは妊娠なんてしなかったのかもしれない。


そんなことを考えていると、また涙が溢れてきた。

涙、涙、しゃっくり、しゃっくり。

苦しい、悲しい、苦しい、悲しい。

とにかく今は、達也に会いたいな。


達也の通う大学の近くには喫茶店があるので、わたしたちはそこで待ち合わせをして、それから話し始めた。


「わたし、妊娠した」

そう言うと、達也は黙った。最近知った言葉で言うなら、絶句していた。

「なんか、言ってよ」

そう言っても、達也は黙っていた。

長い金髪に隠れて表情はよくわからなかったが、とりあえず気が動転しているのはわかった。

「……達也は、どうしたい?」

「……どうしたいっていうか、俺にはわかんねえよ」

「わかんないって、どういうこと?」

「こういう時どうすんのが正解なのか、俺にはわかんねえって言ってんだよ」

「……わたしにもわかんないよ。だからそれを二人で考えたいなって思って……」

「そんなもん、考えてもわかんねえよ。誰も未来のことなんてわかんねえんだから」

「そうだけど、そんなことばっか言ってても始まんないじゃん」

「わかんねえもんはわかんねえよ」

「そんなことないよ」

「ある」

「ない」

「ある」

「ない」

「ある」

「……」達也はそこで、机をバン、と勢い良く叩いた。わたしはそれにびっくりしてしまって、達也を見た。金髪の下、細い目からは、涙が垂れていた。


「……ごめん、ちょっと無理だわ。……俺、帰るわ」

達也は震えた声でそう言って、本当に帰ってしまった。一人店に取り残されたわたしも彼の後を追って店を出ようとしたが、何故だか体が動かなかった。

それ以降わたしは、達也と会っていない。


それから数日後、紫音が帰って来た。あの日と変わらない無表情で、予告もせず、わたしの目の前に現れたのだ。


その瞬間、紫音にはこのことを言おうと思った。紫音に言わなければ、最後まで誰にも言えない気がした。


ついでに言えば彼女が、もう一度、わたしの人生を変えてくれるかもしれないとも、期待した。



すべてを話し終えると、藍音は俯いて、そこから動かなくなった。さながら充電が切れたかのように、彼女はぴくりとも動かなくなった。


藍音の話は散らかっていて、思い付いたことを本能のままに話したような形だったが、要約すれば「一緒にバンドをやっていた大学生との子を妊娠した」ということだった。私はそれを黙って聞いていたが、途中途中で苦しくはなった。


「よく、話してくれたね」

私は言いながら、藍音が抱えている胸の痛みがそっくりそのまま移ってきたかのように、私の胸もまた、ずんと重くなっているのを感じた。


藍音は俯いたまま、やはりぴくりとも動かない。

「他の人には話してないの?」

藍音は答えない。

「生むとか生まないとか考えてる?」

藍音は答えない。

「私にできることはやるからさ」

藍音は何も答えず、しかし小さく頷いた。私はその何気ない頷きに戸惑う。妊娠の話を聞いた瞬間、「何やってんだ馬鹿野郎」と思ってしまった私に、一体何をしろというのだ。そう思った。


「とりあえず、帰ろうか。家でまたゆっくり話そうよ」

そう言って立ち上がってみたが、そこでも藍音は動かなかった。私はそれに困ってしまって、わけもなく、公園の奥にある街並みを眺めてみた。高台にあるこの公園からは、街を一望できるのだ。


夕焼けに照らされて染まる、なんてことはない住宅地の風景を眺める。公園からは見える小さな家々にはそれぞれの生活があって、それぞれいくつかの人生を孕んでいる。私はそんなことを考えながら、途方もない気持ちになる。公園から見える範囲の中にはいくつもの人生が転がっていて、その人生に私が干渉することはないにしても、そこにはいくつもの物語が展開されている。私はそのことを、なんだか不思議に思った。そしてそれから、柄にもなく、人間はなんのために生まれてくるのだろうか、と思った。生まれて、生きて、ただ死んでいく。その一連に一体、どれだけの意味があるというのだろうか。


「藍音は、間違ってないから」

夏の湿気を感じながら、そんなことを言ってみた。そう言おうと思って言ったというよりは、昔のことを思い出して呟いてしまった感覚に近いのだけれど、藍音はその言葉に少しだけ口角を上げてから、すくっと立ち上がった。

「お姉ちゃん、帰ろうか」

 藍音は静かに、そうとだけ言った。

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