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スタジオ~電車内

スタジオにてマイクスタンドの位置を調整する藍音を、ぼんやりと眺めていた。ボルトを緩めて、自分の背丈に合う高さになるよう、マイクスタンドを収縮させている。藍音の身長は比較的に低い方だから、マイクスタンドの位置も低めに設定されていた。


マイクスタンドの調整を終えると、ギターを肩にかけた藍音が、私の方に振り返る。その姿が様になっていて、私は少し嬉しくなる。


「なんか、やってほしい曲とかある?」

藍音は楽しげに笑っていた。

「まあじゃあ、せっかくだからニルヴァーナの曲でもやれば」

「ニルヴァーナのどの曲?」

「まあなんか、一番有名なやつとか?」

私が適当に答えると、藍音は「じゃあ、スメルズライクティーンスピリットかな」とやはり楽しげに言って、ギターをじゃかじゃかと鳴らし始める。私はそんな藍音を眺めながら、彼女といると肩の力を抜けて楽だな、とぼんやり思った。スタジオには、激しいロック調のギターの音と、叫ぶような藍音の歌声が響いていた。


「わたし、結構上手くなったでしょ?」

曲が終わると、藍音はまた、私の方に振り返る。

「前の実力をあんま覚えてないけど、まあ上手だったよ」

「覚えてないって、酷くない?」

「まあでも、本当に上手だった」

「本当?」

「本当」

そこまで言うと、ようやく藍音は笑顔になる。藍音には昔から、こういうところがある。


「じゃあ次は、自分の曲やろうかな」

 一つ深呼吸をしてから、藍音がそんなことを言う。

「藍音、曲作ってたんだ?」

「まあ、コピーばっかでも飽きちゃうから」

「曲名は?」

「アイネ・グロース・モーゲン・ムジーク」

藍音がさらりと言い切る。

「え? なんて?」

「アイネ・グロース・モーゲン・ムジーク」

なんだか、アイネ・クライネ・ナハト・ムジークのような曲名だ。

「それ、どういう意味なの?」

「ドイツ語で〝とある大きな朝の歌〟って意味。アイネ・クライネ・ナハト・ムジークが〝とある小さな夜の歌〟だから、まあその対義語だよね」

そう言った藍音が、ふいに寂しげな顔になる。


「私、アイネ・クライネ・ナハト・ムジークってあんま好きじゃないんだよね。別にモーツァルトに恨みはないけど、昔から「藍音暗いね」って弄られてきて、本当にうざかったし、家でもしょっちゅうかかってたから」

「確かに、家ではしょっちゅうかかってるよね」

つい昨日も、居間でかかっていた。

「本当、気狂うよね」

藍音はそう言って、マイクスタンドに口を近づけた。するとスピーカーから、藍音の細かな吐息が漏れ、藍音はそれに少し驚いた顔をした。

「とまあ、そういう愚痴を書き殴った曲だよ。でも、音は優しめだから安心して」


藍音の言い、マイクから口を遠ざけて、深呼吸をした。それから、じゃらん、と一つギターを鳴らして、イントロと思しきメロディを奏で始める。先ほどのニルヴァーナの曲よろしく、ロック調の激しいイントロだった。

「自分の名前が嫌いだった。赤紫の次は藍だって、愛がない」

Aメロの最初の歌詞は、それだった。藍音はそれを、気だるそうに歌い、ピックを持った右手をゆったりと振っている。そんな藍音を見ていると、なんだかこちらまで申し訳なくなってくる。

曲が進んでいくにつれて、その調子はさらに激しさを増していった。始めは気だるげだった藍音の歌声も次第に叫ぶような荒々しいものに変わり、テンポも早くなっていく。転調というやつだろうか。私は今までそういう音楽を聴いてこなかったので、やや戸惑いもあったが、これはこれで悪くないと思えた。


そして二番になって曲がようやくサビに入ると、テンポはさらに早くなり、藍音も半分踊るように、ステップを踏んで、頭を縦に振っていた。

「たとえわたしが無価値だったとて、どうだって良いよ。愛も外聞もかなぐり捨てて、ここで叫ぶ、大きな朝の歌」

サビの最後、藍音がそう歌うと、曲が終わった。その余韻がスタジオに残る中、藍音は一瞬目を閉じて、深呼吸をした。その様子を見ながら私は、藍音に言うべき言葉を探していた。


「なかなか良い曲でしょ?」

藍音はにっと、口角を上げていた。

「良かったと思うよ。転調もあれはあれで良いと思うし」

「でしょでしょ、あの転調も我ながら上手くいってると思うんだよね」

「歌詞も、あれはあれで良いよね」

藍音にそう言ってから、自分の肩に少し力が入っているのを感じた。私の言葉を聞いて一瞬、藍音が間を置く。

「でしょ? 結構雑に歌詞書いたけど、我ながら上手く曲に乗ったと思うんだよね」

藍音はまだ口角を上げたままで、そんなことを言う。しかしやがて、上がった口角が下がってへの字口になると、藍音はふいに悲しげな表情を見せた。私の胸にずきんと、小さな痛みが走る。肩に入っていた力が何故だか、すっと抜けていく。


「そんなわけ、ないじゃん……」

藍音は俯いた。

「どんなに工夫したって、しょせんわたしの生んだメロディだし、しょせんわたしの脳から出た言葉だし、だから結局は愚痴だし。この曲はなんていうか、微妙なんだよね」

藍音はポツポツと、言葉を零す。腹を空かせた犬が舌から唾液を垂らすように、藍音は言葉を、スタジオの床に垂らしていた。私は何も言えなかった。

藍音が言葉を垂らし終えると、スタジオにしばらくの、静寂が訪れる。

「ごめんね、嘘嘘。わたし結構、自分の曲好きだよ」

静寂を破って藍音がそんなことを言うものだから、私は意図的に、肩の力を入れ直した。

アンプから漏れるノイズが、スタジオを覆う。スタジオの鏡越しに見た藍音は、わざとらしく笑っていた。



帰りの電車で、藍音はやたらと喋った。昔のことから今のことまで、私と彼女の共通の話題を全部話そうとでもしているのか、ころころと話題を変え、矢継ぎ早に私に語りかけた。私も藍音の話を聞きながら、なんだか肩の力が入ってしまって、どんどんと展開される藍音の話に相槌を打つのに、少しばかり疲労を感じてもいた。


「私さ、自分の名前ってあんまり好きじゃないんだ」

鴻下駅を出発したあたりで、そんな話題になった。

「アイネ・クライネ・ナハト・ムジークのせいで?」

「まあ、それもあるけど、姉二人の名前が前提になってるのが、なんか嫌でさ。ほら、わたしの名前って、朱紫、ときたら次は藍、ってところからきてるでしょ? だから、名前だけ見ると、姉二人がいないと存在し得ない妹、みたいな感じがして、なんか嫌なんだ」

人がちらほらと乗る夕方前の車内にて、藍音は静かそう語る。


「確かにそうかも」

「別に言ってもしょうがないことなんだけどね。文句言ったところで名前が変わるわけじゃないし。ましてやそれを言われたところで、お姉ちゃんもどうしようもないしね」

藍音はそうとだけ言って、ドアに映る外の風景を眺めた。窓の外にはなんてことはない、工場街の風景が流れている。

藍音はそんな風景を少し見てから、私の方を見て、何かを言おうと口を開こうとした。


その時、赤ん坊の泣き声が車内に響いた。えええん、と絞り出すように泣く赤ん坊の声だ。見れば、私たちの立っているドアとは逆側のドアに、抱っこ紐を肩から下げた女性が立っていた。三〇歳くらいだろうか。どこかこざっぱりといた印象のその女性は、抱っこ紐を肩から下げて赤ん坊を抱き、ゆらゆらと揺れていた。母親なのだろうか。赤ん坊を抱き、優しげな表情であやしている。


女性があやし始めてしばらく経っても、赤ん坊が泣き止む気配はなかった。それどころかむしろ、泣き声はどんどん大きくなっていき、いよいよ耳に堪えるような音量になる。それでも抱っこ紐の女性は、優しげな表情を崩さず、ゆらゆらと揺れ、赤ん坊をあやし続けていた。

藍音は、その女性をじっと見つめていた。釘付けになっていたと表現した方が正確かもしれない。とにかく彼女は、静かに、しかしじっくりと女性を見つめていた。


泣き始めて数分が経っても、赤ん坊は泣き止まなかった。それも、喉が枯れてしまうのではないかと心配になるほど大きな声で、びえええん、と泣き続けている。赤ん坊は何かを伝えるために泣くというが、そこまで泣くほどに重要な要件とは何か、と私は思い始めてもいた。


私たちが立つ隣、ドア付近に座る背広姿の中年男性が、小さく舌打ちをした。その音は赤ん坊の泣き声にかき消されたが、隣の私たちにははっきりと聞こえた。向かいに立つ抱っこ紐の女性にはその音が聞こえなかったのか、先程と変わらぬ、慈愛の精神を具現化したような顔で揺れている。ゆらゆらゆらゆら、「赤ちゃんは泣くのが仕事です」と言わんばかりに、揺れている。私はその様子を見ながら、母親はこうあるべきだよな、とぼんやり思った。


ふと隣を見ると、藍音が泣いていた。大きな目を細めて、口元に手をやって、鼻をすすって、それでも頬を伝う涙を、止められないでいた。

私は藍音を見て、なんとなく自体を推論できてしまったような気がした。そして、そんな私の推論が当たっていれば、おそらく藍音にはろくでもない未来が待っていると思うのだけれど、そんな未来を思って私まで暗澹たる気持ちになって、胸がずん重くなる。私のくだらない推論なんて外れていれば、それが一番良いと思った。


藍音が泣いている。赤ん坊も泣いている。車内には依然、泣き声が響き渡っている。


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