藍音との再会
「今日はありがとうね、お母さん」
帰り際、姉はそう言って、母に笑いかけた。それを受けて母も、姉に笑い返す。その笑顔に、あの時私に見せた剣幕の面影はない。屈託のない笑顔で、ただ姉に手を振っているだけだった。
「今日はありがとうございました」
「じゃあ、また来るね」
そう言って、姉夫婦は家を出て行った。姉の肩から下がる抱っこ紐には依然すやすやと眠る華音がいて、私はやはり不思議な気持ちになる。
「かわいかったわね、華音ちゃん」
姉夫婦が帰ってから、玄関口で母は独り言のようにそう言った。その隣にいる私は、彼女の言葉に反応すべきか迷う。
「本当に、華音ちゃんが生まれきてくれて嬉しいわ。やっぱりいつ見ても、子供っていうのは良いものね」
母はまた独り言のようにそう言って、居間へ向かった。そうしてコップを片付け、台拭きでテーブルを拭く。その手際がいやに良くて、こんな女でも二〇年以上母親をやっていたのだな、と実感して、実感してから、虫唾が走るのを感じた。
玄関口からテーブルを拭く母をぼんやり眺めていると、ふいに扉が開いた。誰が帰ってきたのかと思ってそちらの方を向くと、髪を短く切り揃えたTシャツ姿の藍音が家に入って来て、やや驚いた顔で私を見つめていた。
「……お姉ちゃん、帰ってたの?」
しばらく私を見つめてから、藍音はようやくそう言った。
「お母さんから聞いてなかったの?」
「聞いてないよ。わたし、あいつとまともに口聞いてないし」
藍音は居間の母を指差し、あっけらかんとそう言い切る。
「そうなんだ」
「好きの対義語は無関心って、昔お姉ちゃんが言ってたことじゃん?」
黒いリュックを置き、コンバースのスニーカーを脱ぎながら、藍音はそんなことを言う。
「私、そんなこと言ってたっけ?」
「言ってなかったっけ? まあ、そんなのはどうでもいいや。お姉ちゃん、私の部屋でちょっと話そうよ」
藍音は手を引き、はしなかったが、それくらいの温度感で私を誘った。私は階段を上がる藍音の後に付いて行く。廊下を歩き、一番奥の部屋―――藍音の部屋へ向かう。
やがて部屋の前に着くと、ドアを開けて入る藍音に続いて、私も部屋に入った。
「着替えるから、あんまヤラシイ目で見ないでよ」
部屋に入るなり、冗談めかしに言って、藍音はTシャツを脱ぎ始めた。別に姉妹なのだからそんなことを言わなくても良いだろうとは思ったが、藍音には昔からそういうところがある。
着替えている間、藍音をジロジロ見るのもなんなので、彼女の部屋を見回してみた
。
窓辺には木でできた小さな猫の置物があり、壁際の白い小さな本棚には推理小説や大衆文学、いくつかバンド漫画が入っている。そして本棚の横には、ギタースタンドに立てられた、茶色いエレキギターがある。
私はギターには疎いが、このギターがフェンダーという会社の「ジャガー」というギターなのだというのだけは知っている。二年前に、藍音と一緒に買いに行ったからだ。
私が高校時代に友人から借りたNirvanaの「Never mind」というアルバムを藍音が聴き、彼女はロックに目覚めてしまった。しかし当時の藍音は中学生で、ギターを買う金などなかった。だから、大学生となった私がアルバイトで稼いだ金をはたき、藍音にギターをプレゼントしたのだった。
そんなことを思い出し、もうそろそろ着替え終わったかなと思いながら藍音を見ると、彼女はまだ着替え終えていなかった。服を着ないまま、先程脱いだTシャツを綺麗に畳んでいたのだ。着てから畳めば良いのに、と思いながらなんとなしにその様子を見ていると、私は藍音が去年よりも少し太っているのに気がついた。白い腹部が、少しだけ膨れている。彼女は昔から痩せ気味だったから太るのは意外ではあったが、以前は不健康なくらいに痩せていたので、むしろ喜ばしいことだと思った。
そんなことを考えていると、着替え終わり、藍音はこちらを向いて控えめに笑った。彼女の顔は姉の朱音にどこか似ているが、その無邪気にも見える笑みは、朱音のそれよりも可愛らしい。
「お姉ちゃん、久しぶり」
「久しぶり」
「いつ以来だっけ、一年ぶりくらい?」
「そうだね」
「元気してた?」
「まあ、ぼちぼち」
「お姉ちゃん、近況聞くと毎回ぼちぼちって言うよね」
「まあ、実際毎回ぼちぼちだから」
大学とアパートとアルバイト先を往復するだけの生活を「ぼちぼち」と表現して良いのかはわからないが、とにかく、生活水準は大学に入って以来変わっていない。
「藍音の方はどうなの?」
「わたしはまあ……」
少し言い澱み、一瞬、窓辺の猫の置物に視線をやる。
「ぼちぼちってとこかな?」
「藍音もぼちぼちじゃんか」
「まあね」
「ぼちぼちって言うと、高校行ってバイトして、バンドやってって感じ?」
「まあ、だいたいそんなところ」
藍音が言って、微笑む。
「そういえばお姉ちゃん、今日はなんで帰ってきたの?」
「お姉ちゃんが子供連れて来るから、帰って来いって、お母さんに言われたから。面倒ではあったけどね」
「ああ、そうなんだ」
お姉ちゃん、という単語を聞き、藍音が露骨に不機嫌になる。
「で、どうだったの? その子供は」
「まあ、可愛いかったよね。誰の子供であろうと、人間って赤ん坊を可愛いと思うようにできてんだなって。不思議な感じがした」
小さな口から涎を垂らし、寝息を立てる小さな華音は、やはりどう見ても愛らしかった。
「あんな奴の娘で、あんな奴の孫でも?」
「赤ん坊に罪はないから。やっぱり、誰の子でも赤ん坊は可愛いよ」
私がそう答えると、藍音は視線を逸らし、窓辺にある猫の置物に目をやった。こちらを黄色い目できっと睨みつけ、背筋を立てて座る黒猫の置物。その置物はどこか不気味ではあったが、ネコ科特有の凛々しさも滲んでもいて、絶妙なデザインだなと思った。こんな置物、去年からあっただろうか。
「あの、お姉ちゃん……」
視線を私に戻した藍音が、そう呼びかける。
「何?」
「あの……」
藍音が言い澱んで、一瞬俯く。私はその様子を目で追って、それから、なんとなしに猫の置物を見た。やはりあの置物、去年はなかったはずだ。
「あの……」
「あの?」
「明日さ、二人でスタジオ行ってみない?」
藍音はそんなことを言って、思いついたようにギターを指差す。「私がどれだけ上手くなったか、見てみたいでしょ?」
藍音はそこまで言うと、わざとらしく微笑んだ。
私は目線を逸らす。窓辺、猫の置物の顔は、相変わらず凛々しい。
「どうせやることないし、別に良いよ」
「本当に? じゃあ、昼頃に行こうか」
藍音はまだわざとらしく微笑んだまま、私も目を、じっと、しっかり見据えていた。その黒いくりりとした目はやはり姉に似ていて、私はむず痒いような、なんとも気持ちの悪い感覚を覚えた。