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帰宅~回想

胸の底に振動を感じて、目が覚めた。随分長い間眠っていた感覚がある。一体、どのくらい眠っていたのだろうか。


東京駅から東海道線に乗って、すぐに眠った記憶がある。そうなると、眠っていたのはだいたい四〇分くらいだろうか。まだ少し眠いが、そろそろ目的地に着くようなので、今からもう一度眠るのは、少々危険にも思えた。


重い瞼をゆっくりと開け、前を見る。駐輪場、歩道橋、商業施設。窓の外をかつては見慣れた街の風景が、流れていく。そうして、実家に帰るのも一年ぶりだな、と思いを馳せた。


ふと携帯電話を確認すると、着信が二件、メールが一件届いていた。そのいずれもが母からで、私は苦笑する。せっかちが過ぎる。とりあえずと、メールを開く。

「もうお姉ちゃんと旦那さん来てるから、早くしなさい。急いで。」

メールを読んでまた、私は苦笑する。こんなことを伝えるためにわざわざ二回も電話をかけてきたのか。私は呆れて、そっと携帯電話をポケットにしまった。返信するだけ時間の無駄だと思った。

今日、土浦のアパートからわざわざ実家にやってきたのは、母から届いた一件のメールがきっかけだった。


「お姉ちゃんが赤ちゃん連れてうちに来るからあなたも帰ってきなさい。ついでに何日か泊まっていきなさい。」


姉は一年前に同僚の男性と結婚し、このメールを受けた一週間ほど前に女児を出産していた。 それを機に姉が一度へ実家帰って来るというので、次女の私が動員された。はっきり言って実家に帰るのは面倒だったので、あまり乗り気ではなかったが、私は大学生で長い夏休みにたいしてやることもないし、また、こういう時の母は執念深いから、断ると後々面倒だ。そういうわけで、私は仕方なく実家へ赴くことになったのだった。


姉の子など、正直言って少しも興味がない。もっと言えば、私は姉と母に興味がない。話していても、何も得るものがないからだ。大学の研究室でやっているアルミニウムの研究の方が、自分の教養が広がっている実感があるだけ、まだ興味が湧く。私はため息をついて、視線を落とす。


「駒井戸、駒井戸。お出口は右側です」

車内アナウンスが、実家の最寄り駅に到着したことを告げる。私は席を立って、網棚に置いていた大きなリュックを下ろし、背負う。数日分の着替えを入れたリュックは重かったが、今更文句を言っても仕方ない。私は両肩にかかる重みに耐えながら、数キロ離れた実家にいる、姉と母をそっと呪った。お前らのせいで私の貧弱な肩は、悲鳴を上げている、責任を取れ、と。

やがて電車が息を吐いて、ドアが開く。私はそれに従って、ゆっくりと電車を降りる。すると、むんとした夏の湿気が一目散に私に纏わり付いてきて、嫌になる。汗が出る。念のため手で仰ぐが、やはり汗が出る。


それでまた、私は姉と母をそっと呪った。お前らのせいで、余計な汗をかいてしまったではないか、責任を取れ、と。



実家の一軒家に着き、扉を開けるなり、居間の方からアイネ・クライネ・ナハト・ムジークが聴こえてきた。玄関口からでも聴こえるということはそれなりの音量で流しているのだろう。アイネ・クライネ・ナハト・ムジークを直訳すると「とある小さな夜の歌」になるが、その曲を「昼に大音量」で流すのはなんだか滑稽に思えた。


靴を脱いで、居間へ向かう。居間に入ると、木のテーブルで母と姉、その夫が談笑していた。そして姉の腕には、すやすやと寝息を立てる小さな赤ん坊がいて、私はそこで何故だか、少しはっとさせられた。


「紫音、やっと来たわね。遅いわよ」

母がまくし立てる。

「ごめんね、遅くなっちゃったかな」

私は言いながら、リュックを下ろす。一二時過ぎで良いと言ったのはそっちだろうとは思ったが、その辺りの指摘をすると母は面倒なので、あくまで笑顔の対応を心掛ける。

「彼女が朱音の妹さん?」

「そう、紫音っていうの」

朱音――姉とその夫がそんな会話をしている。私は夫の方に小さく頭を下げた。

「はじめまして、姉がお世話になっております」

「いえいえ、朱音の妹さんに会えるのを楽しみにしていましたよ」

姉の夫は、ふっと微笑んだ。それに応じるため、私もつとめて微笑み返した。表情筋の操作には慣れている。嬉しくない時に笑うのも、なんて事はない。


「じゃあ、紫音は新一さんの隣に座ってもらおうかしら。新一さん、大丈夫?」

「ええ、喜んで」

姉の夫―――名前は初めて知ったが新一さんは、また微笑む。そしてその笑顔がいやに白々しく、私は同族嫌悪的な感覚に陥ったが、構わず隣に座る。新一さんもまた、表情筋の操作には慣れていそうだった。


「新一さん、これが娘の紫音ね。朱音の妹。今は大学生で、一人暮らしをしているのよ」

私の左斜め前に座る母が、私を指差してそう紹介した。私は母が話し終えるのを見計らい、軽く頭を下げる。「よろしくお願いします」

「よろしくね。大学生ってことは、朱音とは結構歳離れてるんだね」

「そうですね。姉とは四歳離れています」

「四歳差か。そうなると、朱音が今二五歳だから、紫音ちゃんは今二一歳ってこと?」

「そうですね」

「へえ、そうなんだ」

「新一さんはお幾つでしたっけ?」

「僕は三〇だよ。だから、朱音とは五歳差、紫音ちゃんとは九歳差だね」

「なるほど、そうなんですね」

「そうそう、そうなんだよね」


そこまで会話をすると、新一さんは大げさに相槌を打ってから、私と会話を続けるのが面倒になったのか、視線を逸らした。その視線は私の向かい、姉が抱く赤ん坊に向けられている。

「華音、ぐっすりだね」

新一さんがそう言うと、母と姉の視線が吸い寄せられるように、赤ん坊―――華音に向いた。つられて私も華音の方を見る。姉の腕に抱かれ、小さな目を閉じて寝息を立てる華音は、愛らしく、どこか神秘的にさえ思えた。


「ぐっすりだね。笑っちゃうくらい」

そう言って、姉は優しげに、ふわりと微笑む。その笑みは新一さんとは違い、自然だった。

「この子がこれから、どんな風に育っていくのか、楽しみだよね」

「そうね。この先どうなるかはわからないけど、きっと良い子に育ってくれると思う」

「なんていったって、僕らの子だからね。きっと、朱音みたいに元気な子に育ってくれるよ。そのために、朱音からとって名前に「音」を入れたんだから」

そう言い合って、姉と新一さんは、幸せそうに笑った。その様子を、姉の隣に座る母もまた、幸せそうに見つめている。

大音量で流れるアイネ・クライネ・ナハト・ムジークの軽快なバイオリンの音色が、部屋に充満している。


「そういえば、お義母さん。朱音と紫音ちゃんは、どんな子供だったんですか?」

新一さんはふいにそんなことを言い始める。

「ちょっと新一、何聞いてんの」

「ほら、こういうのって、今みたいな時にしか聞けないだろ? 子育ての参考になるかもしれないし」

「……まあ、そうかもしれないけどさ」

姉は少し不満げに言って、依然笑顔の母の方を見る。

新一さんの言葉を受けて、母は姉と私を順に見やってから、再度姉の方を見た。

「朱音は昔から元気で明るくて、本当に今と変わらない子供だったわ。昔からずっと、本当に良い子だった」

母は新一さんを見据え、早口でハキハキとそう言う。その様子が、我が子についてというよりは、家電量販店の店員が商品について客に語る様子に似ていて、私は人知れず苦笑しそうになる。ウチの子はこんなに高性能ですよ、と新一さんに売り込んでいるようだった。

「へえ、今と変わらないんですね」

「そうそう、変わんないのよ。手前味噌になっちゃうかもしれないんだけど、本当に手のかからない子だったわ。なんでも自分でやっちゃうし、勉強も私が言う前にやったし、習ってたピアノも上手だったし」

母は身を少し乗り出して、姉の説明をする。新一さんはそれをうんうんと頷きながら、どこか誇らしげに母の話を聞いていた。


「お母さん、やめてってば。照れるよ」

姉は言いながら、まんざらでもない様子だった。

「だって、本当にそうだったんだから、そう答えるしかないでしょ」

「もしそうだったとしても、新一にそれを言うのは恥ずかしいって」

「しょうがないでしょ、聞かれちゃったんだから」

「もう、意地悪」

姉が頬を膨らませて言うと、母と新一さんは声を上げて笑った。私も合わせて笑う。そして一通り笑い終えると、新一さんが私に一瞥くれてから、母の方を見た。


「紫音ちゃんはどんな子供だったんですか?」

新一さんに尋ねられると、母は一瞬口をへの字にしてから「そうねえ」と濁す。その反応が、姉の時と雲泥の差で、私は思わず苦笑しそうになる。もう少しうまくやれよ、と思った。

「良い子だったわよ、紫音も」

ややしどろもどろになりながら、母はそうとだけ答える。それに新一さんの表情が、少し強張る。私はそこで再度、もうちょっとうまくやれよ、と思った。わざわざ私を呼んだのはお前だろう、お前のせいで新一さんが困ってしまっているではないか、と。


「反抗的な時期も、あったんだけどね」

母がそんなことを言い出すので、母と、私の正面で白々しく笑う姉を交互に見た。胸の底からわき出すものを感じた。そして、小学校時代に起きた、とある出来事を思い出した。彼女たちは忘れているかもしれないが、私ははっきりと覚えている。忘れもしない。

「まあでも、紫音も良い子だったわよ。朱音ほどじゃなかったけど、勉強もできたしね」

 母が、へらへらと口角を上げながら、そんなことを言う。私はそれを聞きながら、膝の上の手をぎゅっと握った。胸のそこからふつふつと、感情が湧き上がってくる。堪えろ。自分にそう言い聞かせる。


居間には依然、アイネ・クライネ・ナハト・ムジークの軽快で呑気なメロディが響き渡っていた。穏やかで、優雅。そんな、今の抱いている感情とは相反するメロディが、私の神経を逆撫でする。

私はモーツァルトの名曲を、心底煩わしいと思った。



小学四年の夏のことだ。風呂場で姉の体操服を洗濯する母に、「もう塾やめたい!」と私は言った。


塾に行ったせいで帰りが遅くなり、楽しみにしていたドラマの最終回を見逃した夜、フラストレーションの風船が破裂した私は、いよいよ母に向かって大声を上げたのだった。


これまでも伏線はあった。母には再三不満を漏らしていたのだ。「放課後に遊びに行けなくて嫌」「ドラマとかアニメが見れなくて友達との話についていけない」「他の友達は塾に行っても週二回くらいだ。ピアノと塾で放課後にまったく遊べないのはおかしい」など、我ながら正当性のある文句を再三言っていたのだが、いずれも「うるさいわね、お姉ちゃんを見習いなさい」と一蹴された。


そうして膨らんだフラストレーションの風船は、ドラマ最終回見逃し事件を機に爆発し、私は母に塾とピアノ教室をやめさせてくれと要求した。しかし、母が私の要求を飲むはずはなく、ヒステリックになった彼女は、目をひん剥き、鬼の形相で私に迫った。


「お姉ちゃんを見習いなさい」「私はあなたの将来のために言ってるの」「そのくだらないドラマを見てくだらない友達と遊ぶのと勉強して将来良い会社に入るのとどっちが大事だと思ってるの」「どうしてわからないの」とそれらの言葉を矢継ぎ早に浴びせ、いよいよ私の長い髪を引っ張って、平手打ちをした。痛い、というよりびっくりした。平手打ちの衝撃で胸がばくんと跳ね、次いでピリピリとした痛みが走った。


私はその日、悲しいというよりは悔しくて、でもやはり母が怖くもあって、それで、夜通し泣いた。

「謝るまでご飯抜きだから」

母の捨て台詞だった。その言葉を最初は嘘だと思ったが、実際は本当で、それから数日間、私は家で食事を与えてもらえず、給食だけで空腹を凌ぐ生活が続いた。母はその間、一言も口をきいてくれなかった。


その日々の途中、廊下で泣きながら座り込む私を前に、姉が一度立ち止まったことがある。その瞬間、姉が私を助けてくれるのだと期待したが、姉は、あっけらかんと私の期待を裏切った。憐れむような、軽蔑したような、口角を半端に上げた顔で「紫音が悪いから、早く謝りな」とだけ言って、姉は自分の部屋へ帰って行った。食卓からは、私の好物であるカレーの匂いが、プンプンと漂っていた。


その翌日、私は母に謝罪をした。すると母は、「初めからそうすれば良かったのよ」と笑顔を作り、私の頭を撫でた。その時味わった母の手の感触が気持ち悪くて、逃げたくて、私はぶるっと身震いした。


その時も確か、居間にはアイネ・クライネ・ナハト・ムジークがかかっていたと思う。


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