表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

裏切りえない恩義

 人間社会は、部分最適性と全体最適性の葛藤だ。

 そして、その意味で人々には大きな貴賎の違いがある。


 しかし残念ながら、人間社会は理想的に合理的には推移しておらず、良心の価値は本来の程度に比べて、等閑視されている。

 社会が技術的に発展するなかで、ある意味での人情に対する人々の感受性や、良心の価値に対する尊重は、とうに微弱になりつつある。

 個人という機能は、技術的な経済単位へと収束している。それゆえ、彼らが内面から状況への矛盾を感覚することはない。

 直観で見えないならば、言葉や理屈で説明するのも一つの手だが、直観で見えない場合にそれを理屈で理解することは、人々の知力の限界を果てしなく隔たっている。

 よって、残念な現状は、やむないものとせねばならない。


 社会的な合理性という大きな観点から見れば、人々それぞれの性格には、様々な意味がある。

 しかし人々にとっては、自身の良心の程度は、単に性格という以上には認知されない。

 だから例えば、人を騙すことを嫌う人は、単に自分はそういう性格で、騙すようなことはせずに暮らすのが好きで、だから、そのせいで少し損をしてしまうことがあっても、それは仕方がないと考える。

 それゆえ、本来はもっとずっと世俗的な幸福に報われるべき善性を備えている人々のほとんどは、自分が言わば不当に味わっている損失について、かなり無頓着だ。


 時代の性質上、モラルある多くの行為は、実際には悪しき権力によって言わば搾取を受けている。善良な人種は、半ば淘汰の過程にある。

 しかし彼らの多くは、葛藤や憎悪を、事実を客観視した場合に空想されるほどには、まったく感じない。

 ほとんどの、まっとうな人、真面目な人々は、そのように生きる生き様を、自らの性格だと見なしている。モラルある教育を受けたせいで社会に出てかえって損をする場合があるとしても、モラルについての社会全体の因果まで認知しはしない。

 自分に備わった良心は、本来はもっと高く評価されるべきで、あの他者の悪意は、本来はもっと罰を受けるべきなのに、といった憤懣をさほど感じない、ということだ。


 しかし、私の視点は違う。私はもっと全体の因果を理解しているし、それゆえ、彼らはもっと怒っていい、などと思う。

 味の悪い食事に満足している子供に、あなたはもっと味の良い食事に値する、と言うようなものだ。彼にとっては余計なお節介以上ではないが、社会全体の客観的事実としては、そういった構造はありうるのである。


 ともあれ、人間の社会に生を受けたならば、無数の人と関わって育つことになる。

 直接に関わる人々はもちろん、江戸時代にそこに畑を作ったとか、そこの川を整えたとか、紀元前に戦争を戦って守ったとか、間接的な膨大な意思と因果を持つことになる。

 なぜならば、のちの世代の子供達が便利なように、この設備を整えておこうとか、この情報は正確に記録しておこうとか、そういった、単純な利己性で完結しない意思が、歴史には膨大に含まれているからだ。遥か遠い時代のまったくの異民族の人々にだって、深淵な恩義がありうる。なぜなら、天下のため、人類のため、といった哲学は、有史以前からさほど珍しくはないからである。


 ゆえに、人間の社会に生まれ落ちるということは、夜空の星々よりも膨大な恩義を背負って生まれ落ちるということである。

 これは古風に言えば、ご先祖様に感謝しなさい、というような哲学だ。

 そのような哲学は、かつてかなり一般的であって、今では非常に人気がない。

 現代の人々は、人間に利他的な感情などなくとも、市場機能と技術発展によって人類幸福は発展していくと錯誤しているからである。優しい貧乏人よりもクズな金持ちのほうが擦り寄るに値すると錯誤しているからである。

 しかし実際には、人間社会にとって、今も昔も、人情や良心は、極めて重要な因子である。


 生まれる環境によっては、周囲の人々に、感謝すべき良心など見当たらないかもしれない。

 しかし、一人の人間が年月をかけて成長していくなかでは、何人もの人と、いくつもの関係を持つ。とうてい記憶しきれないほどの出来事がそこにはある。

 ゆえに、私には誰への恩義もない、と言える人などまずありえない。

 飲んだくれの遊び人すら、稀に良心の陰を見せることがある。

 誰でもどこかで、神仙に劣らない善意を受けている。

 いやむしろ、毎日のように膨大な善意に浴していることが普通だと言うべきだろう。

 広い社会には、まっとうな人々が無数にいて、色々な辛い思いもしながら、しかし良心を失ってしまうことなく、日々、社会の質に貢献している。


 そしてすでに述べたように、淘汰されつつあるそれら善性のほとんどすべては、不当に被っている大きな損失を十分に恨むことがまったくない。

 しかし、それらすべてを苦労することなく見通せてしまう立場に立ったならば、どうだろうか?

 モラルなど投げ捨てて、利己的に生きなければ個人として損な時代だからといって、自身の幸福の合理性だけのために生きることができるだろうか?


 それは、裏切りだ。

 裏切ることはできない。


 不運なものが虐げられて顧みられることがない、無限大の苦しみに転落する者に、手助け一つ差し向けられない、そんな利己だけの世界を望んだ者は少ない。

 自分が生きたのちの世が、より良いものであることを衷心から祈って、多くの行為が行われ、多くの損失が引き受けられてきた。


 君は、素晴らしい人だ。

 坊やは必ず、立派な大人になるに違いない。

 あなた達の世代に、この世の中を託します。

 我々の思いを継いで、我々の悲願をきっと達成してください。

 そういった種類の意思が、人類の祖先全体から、現代へとのしかかる。


 残念だったね、ごめんなさい。

 何が倫理的に正しいか私にはわかるけど、我が身がかわいいので、自分は利己的に生きます。

 色々と親切にしてもらったのは感謝するけど、こちらから返すことはしません。

 あなた達の言う正義に今の時代に付き合ったら、人生、破滅しかしないので。

 どんなにそう言いたくても、身体がそうは言わせない。


 もしも真理が見えてしまったなら。

 兄や姉が眼前で微笑むのが見える。

 かわいがってくれた兄、優しくしてくれた姉。

 なんて深い人情、なんて深い愛情。

 理想的と言えるモラル、届くことのできない知性。

 歴史に生きるのは、数え切れない偉人・聖人の列。

 そのなかには、あどけない顔立ちのまま十代で戦闘に倒れた者も少なくない。

 正義のために、悪夢のような恐怖に恐れることなく立ち向かって死んでいった、兄や姉。

 どうしたらそれを裏切ることができるだろうか? 裏切れるはずなどないのだ。

 同じ戦場に戦って、兄や姉のちょうど隣に倒れるところ以外に、満足しうる道はないのだ。


 もちろん、知識としては知ってはいる。

 現代のほとんどの人は、現代に生まれ、現代人らしく、世俗的に利己的なロジックで生きて満足している。父母や祖先を、裏切っている。

 でもそれは単に彼らが真実を見えていないからで、なぜ真実が見えてないかと言えば、彼らの知力にひどい限界があるからにすぎない。

 そしてその条件を、私は共有してはいない。

 十分な知力があって、しかし裏切りを選択した者など、実際、一人も存在しない。

 私は十分に事実が見渡せているが、現代人的な生き方を選択している、という意味のことを言う者がいるが、どの一人も例外なく、必要な知的才能の一割とて備えてはいない。愚者が安易な嘘をついて見栄を張り、自尊心を慰めているのだ。


 そのようにして、倫理的な貴賎が見えたならば、尊敬する人物像の方向性は決まってしまうから、裏切りは不可能だ。

 利己的に生きて満足する卑しい現代人よりもずっと、死んでいった気高い人々を尊敬してしまうのだから、その愛好は始めから破滅的な性質を帯びている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ