潜在する貴賎
すなわち、ほとんどの人の認知する直観とはかけ離れた形で、社会には、社会的に有益な人材と、社会的に有害な人材とが分布している。
現代思想においては、個々人の価値は、少なくとも必要悪として、経済的価値や、二次的には学歴などに、相関するものと見なされている。つまり、社会的に価値ある行為ほど多額の金銭で報われるとか、いわゆる学歴に優れた人材ほどその意味で社会に有益だと見なされている。それに対して、ここで、社会的に有益だとか有害だとか言うのは、果てしなく別の価値観において言っている。
すなわち言ってみれば、良心の価値について非常に鋭敏に、社会というものを捉えたならば、日常を生きる人々のなかに、一対百だとか、一対万というスケールで、価値の差異、ひいては尊厳の差異が認知される。
すなわち言ってみれば、他者の善性に深く感謝する心性を持つということは、他者の悪意を深く憎悪する心性を持つことと、表裏にある。
よって、この意味での倫理主義は、悪く言えば、差別主義や階級主義の色彩を持つ。
すなわち、この意味においてこそ、人間は平等ではない。
ここで言う良心は本質的に、先天的制約のもとにあるからだ。
平等性へのこの否定は、現代思想と鋭く対立する。
ほとんどの人にとって、否定的感情や攻撃的感情を煽ることになる。
大衆が賛同する真理など始めからないのだ。
もしも、ここで言っているような、言わば良心主義を受け入れたならば、人は、自らの才能の限界と向き合わざるをえなくなる。
人は、そんなものと向き合えるほど強くはない。
実態としては経済的な労働資源として完全にコモディティ化している大衆にとって、人権としての平等性の信念こそは、相手を殺してでも守るべき唯一の自我の砦だ。そこに対して、才能のない者はゴミだと言わんばかりの哲学をぶつければ、噛みつかれ、唾棄される。それが本質的にまったくの誤解であり、その哲学がいかに善意な理由に基づいていようとも、その現実は変わらない。
大衆の知能とは、未来永劫、それ以上ではない。
ともあれ、多数の人が否定することは、事柄の事実性と関係がない。肯定することも、そうである。
事実として、客観的な現実としては、人々には貴賎がある。
一対万や、それ以上のスケールで、貴賎がある。
良心にはそれだけの価値がある。
良心の存在とは、それほどに希少な、半ば奇跡的なものである。




