表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

部分最適と全体最適

 この世に生を受けて、人々を観察してすぐに気づくのは、人間社会が、全体最適性と部分最適性のせめぎ合いだということだ。

 しかしほとんどの人はそれを一生知ることがないままに生涯を終える。それは認識しようと努力して認識できるものではない。それを認識できる人は、一万人に一人もいない。


 例えば、あいまいな言葉遣いで表せば、性格のいい人と性格の悪い人とがいる。それは生まれつきだ。ここで、性格のいい人と性格の悪い人とは、より理屈っぽく、理屈っぽいがなおあいまいな言葉遣いで表せば、利他的な人と利己的な人のことである。

 利他的な人はしばしば損をするが、利他的な性質にも正当性が存在することを確認しておこう。


 例えば、文化的に成熟した社会とそうでない社会とが接触する場合がある。具体的だが大雑把な例えで言うならば、例えば、先進国に後進国からの移民が侵入して生活が触れ合った場合を考える。

 そのようなときに、モラルやマナーの水準の違いが立ち現れる場合がある。

 それは、社会的な成熟というものの本質的な性質の一面として、自然なことだ。

 つまり例えば、ある種の暗黙のルールに互いが従うことで、短期的な利己性を我慢しつつも、長期的な利益をそれぞれが得られる場合がある。いわゆる囚人のジレンマというモデルにおける協調戦略のように、それが社会をそもそも成り立たせている因果の一つだ。

 つまりモラルとは、元をたどれば利己であり、社会倫理もそれは変わらない。


 同様に、性格の悪い人と対比するところの、性格のいい人というものは、成熟した社会への適応だと考えることができる。そのような適応は、血統のレベルでありうる。


 そのようにして、人それぞれ、内面の心理ないし思考ロジックにおける、良心の程度というのは、非常な格差がある。

 しかし、ほとんどの人は他者の内心に鈍感であるから、その格差がいかに深いか、まったくわからない。どんなに努力しても絶対にわからないのだ。


 現代の社会は、物質的には一見、うまくいっている。

 だから、ほとんどの人は、社会はうまくいっていると思っている。

 つまり、貨幣市場システムは社会幸福を合理的に推移させていると楽観している。

 すなわち、自分の幸福にとっての価値や、社会を合理的に運営していくための社会的価値と、貨幣的な価値つまりお金という尺度を、強くリンクして考えている。

 それは本質的には、優れたものほど栄える、という哲学に立っているということである。

 それは、部分最適性が全体最適性に帰着するという楽観をもたらし、部分最適性と葛藤する意味での全体最適性の尊厳を減じて見せる。


 つまりは、現代社会というものは、善人などいなくとも、市場競争で発展していくと、現代の人々は思っている。

 あるいは、市場競争を舞台とした成功と協調した形で、あるべき善性や善人もまたもたらされるだろうと楽観している。

 例えば、自分の幸福にしか興味がなく、隣人がいかに苦しもうが痛痒を感じない人がいたとして、適切な法律さえあれば、その人もまた、利益追求の結果として法令を遵守するだろう。そのようなものがモラルとされ、モラルとは、凡人でも選択しうるものとして直観されていく。


 一方で、生命の世界は歴史的に闘争であり、前に言及した、先天的な性格としてモラルの程度が高い人々は、社会の成熟によって生じてきた血統だと言える。

 これは長い時間をかけた生命進化で得られたものであるから、代替は困難であり、希少価値が高い。

 しかし現代の人々は、経済社会における利己的な戦略のなかで、利他的な性質の人をなにかしら出し抜いて利益を得たとして、それを不都合とは思わず、肯定的に認知する。なぜなら、市場競争が社会幸福に矛盾しないと楽観しているからだ。

 しかし実際には、ほとんどの人々の特に深い心理的な幸福は、比較的に善良な心根を持つ人々の善性に、深く依存している。人間幸福のほとんどの要素は、いまだ、理屈で把握して理屈で算出できるようなものではないからである。例えば、経済指標における経済成長は、人々の幸福を絶対的に保証するものではまったくありえない。

 にもかかわらず、金銭の権威の前に、良心の尊厳はもはや消え去った。

 現代の社会は、善人という貴重な資源を、あまりにも浪費し、あまりにも消費している。

 このことは、人々自身のために、合理的ではない。

 しかし、人々は限りなく賢くはないから、そのような現象はやむを得ない。


 そのような全体最適性と部分最適性のせめぎ合いが人間社会に存在することは、人間社会というものを一見して、そもそも明らかである。

 しかし人々は、人それぞれの内面の良心の程度の違いを悟る能力がとても弱くて、なおかつ、内面の良心が有する社会的に合理的な価値を認知できるだけの知性にはほど遠い。

 それゆえ、地位や財産があるという人のなかにも汚物にたかる虫よりも卑しい者が多いことや、権力や威厳と無縁に見える立場にあって半ば虐げられている庶民のなかに、神仙に劣らない善性を持つ者が多いことに、ほとんどの人は無頓着で、その倫理的矛盾に心理的葛藤を掻き立てられることがない。

 ただしここで、庶民性を肯定しようというのではない。権力が悪で大衆が善であるとは、人間精神が罹患しうるもっとも邪悪な自己欺瞞だと知らねばならない。ただ善は、富裕とも、また逆に、庶民性とも独立だと言うのである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ