第三十話 『三十』
……あれからどのくらいの時間が経ったのだろうか?僕は時計を見る。八時三十分。だが、これがいつの八時三十分を示しているのか分からない。もう一日が何時間なのかも分からない。いつまで続いていくのだろうか?このまま、この世界が現実になってしまうのだろうか?それだけはあって欲しくはなかった。それだけは避けて欲しかった。ここが現実なんて認めたくない。まだ、僕は土のなかにいる、と思いたい。だけど、もう僕は抜け出したんだ。
僕は山へ行こう、と決心する。それで、もう一回土のなかに戻ろう、と思った。僕は両親にバレないように裏から家を出る。外に出た後は走り続けていた。とにかく、走っていた。逃げるんだ。もうたくさんだ。こんな現実なんて嫌だ。違うんだ。あの土のなかに戻れば、これはなかったことになるんだ。僕は戻る。あそこが僕の家なんだ。
『おい、どこへいく?』
聞き覚えのある声がした。僕は振り返る。そこには父がいた。僕は父に掴まれた右手を
振り払おう、とする。だが、大人の力には適わない。僕はまだ子供だった。無力な少年はここで終了するのだ。僕は諦める。この世界を現実と認めるしかない。僕はいつまでも無力な少年だった。無力から新たな力を得ることなんてできなかった。僕はこの世界で一生を過ごすしかないんだ。どうやら、諦めの速い僕のようだ。だけど……僕は僕に抗う。僕は諦めない。僕はまだ闘う。何の意味もないかもしれない。それでも、僕は進む。このまま死んでもいいかもしれない。ただ、この現実を認めて、死んでいくなんてごめんだ。
「殴りたければ殴れよ! いつもやっているみたいに!」
父は困った顔をしていた。父は殴る気はないみたいだ。じゃあ、殴らせるような状況を創ればいい。
「過去にお前が僕にやった仕打ちを近所にばらしてやるからな!」
これで父は殴るだろう。殴れよ、さっと殴れよ。そうやって、今まで僕を殴って来たんだからな。さあ、早く殴れよ。殴ればいいだろう。そうすれば、僕は父を恨むことができる。そうすれば、また土のなかに入れる。早く殴ってくれ。この現実から醒めたいんだ。僕はあの土のなかに潜む悪魔と闘いたいんだ。悪夢を見たいんだ。さっさと殴れ。そうしないといけないんだ。そうしなければ、僕は、僕は……。
『はあ? お前に手を出したことなんて一回もないぞ。言いふらしたいのなら、そうすればいい。だけど、俺はお前を殴ったことなんてないからな』
え?一体、何を言っているんだ?僕は父に殴られたんだ。僕は酷い目に遭ったんだ。この人は何を言っているんだ?そこで僕は気付く。ああ、何だよ、そういうことか。僕はまだ土のなかにいるんだ。ここは現実じゃないんだ。良かった。でも、長い夢だな。あれからいくつの時間が流れたのだろうか?僕は分からない。どうやったら、この悪夢から眼を覚ますのだろうか?とにかく、安心した。
「今から公園に行くんだよ。友達と約束したんだ」
父は驚く。それで、僕の腕を握り締めていた大きな手が緩む。僕はそれを逃さずに、その手を解き、どこまでも遠く走って行った。どこへ向かう?もちろん、土のなかさ。あそこが僕の場所なんだ。僕は戻らなければならない。走る、走る。世界が動き出した。風景が次々と変わる。僕は走っているんだ。気持ちが良い。もっと速く。僕は走る速度を変える。僕は本当にボルトになれた気がした。僕は走る。あの場所へと。
……着いた。僕の埋められた場所。ここが僕の居場所なんだ。僕は掘り進める。割れた爪はもう治っている。僕は掘る。掘り進める。今度は道具を使わずに。自分の手で掘り進める。ここに何があるのだろう?何があってもいい。僕は土のなかにいるんだ。ここが僕の場所。僕の憩いの場なんだ。本当にそう思っているのか?ここがお前の居場所なのか?違うだろう?お前はここにいてはならない。お前は戻らなければならない。うるさい、勝手に僕の頭のなかに入り込むんじゃない。僕の邪魔をするな。僕は頭のなかにいる誰かを払い除ける。一体、君は何をしている?くそ、また別の誰かが僕の頭のなかに入り込む。邪魔だ、邪魔だ。僕はもう何も考えずに掘り進める。僕はただ掘り進めていた。その行為にちゃんとした意味があるのか?そんなもん知るか、と僕は答える。
……あれから一体、何時間経ったのだろうか?僕は未だに土のなかにいる、ということは確かだ。だけど、この世界からは逃れられてはいない。ずっとこの世界にいる。もうそろそろいいはずだ。いや、まだか。まだ、あのノートを見つけていない。あれを見つけない限り、僕はこの世界から離れることはできない。それが本当なのか、分からないけど。僕は何を信じれば良いのか分からない。今も僕の頭のなかに別の住人が入り込んでいる。僕は何故この体に棲みついているのだろう?僕は最初からこの体にいたのだろうか?僕は分からない。どれが本物なのか?どれが偽者なのか?どっちにしろ、大した差異はない。僕は僕であり、僕の精神がこの体にいる理由はない。ただ、この体から抜け出せないからここにいるんだ。僕がこの体にいる必然性はない。だけど、僕の体に入ってくる別の住人を追い払う必然性はある。そうしなければ、僕は支配されてしまう。僕の精神は崩壊してしまう。それだけは避けなければならない。僕は闘わなければならないのか?僕は永遠に正義に徹しなければならないのだろうか?それとも、僕は永遠に悪に徹しなければならないのだろうか?いや、どっちかに依存しなくてもいい。どっちでもいいんだ。闘う理由ができれば、ただ、それだけでいいんだ。
僕はまだ掘り続けている。僕の意識はこの世界に留まっている。もういい加減にして欲しい。一体、僕をどこまで掘らせる気なのか。僕は疲れ果てた。もう面倒になった。もうこの世界で生きていくしかない、と思った。そう諦めかけた瞬間、何故か探していたノートが見つかる。やっと見つけた。最後のページを開く。
『光と土の狭間にいる僕』
その前のページを開く。文字が書いてある。僕はそれを読む。そこには、今まで僕が見た世界のことが書かれたあった。詳細に。結局、僕は誰かに抗うことはできなかったみたいだ。僕は決まったレールでしか走れないんだ。僕の意志なんてどこにもない。僕はこのノートを破り捨てたい。だが、それをやめる。まだ見ていない部分があるからだ。この前のページには、僕がまだ体験していないことが書いてあるかもしれない。僕は開く。そこには白紙。何にも書かれていない。僕が体験したことがないものは何ひとつ書かれていない。僕は落胆した。僕は地面が崩れていくのを感じる。来た。これから始まる。僕の土のなかの生活が。僕は抵抗をしない。このまま穴が広がっていくのを待ち続ける。
……いつまで待っても別の世界に移動することはない。いや、意識していなかっただけで、もう本当はすでに別の世界に移動しているのかもしれない。僕は土のなかから這い上がる。少し、おかしなところから出てしまった。土のなかに居続ける世界があるのなら、まだしも、土から自分の力で起き上がるのは初めてだ。いや、違うか。さっきの世界でも今と同じようなことをしていたか。
僕は肩についた土を払う。そして、土を何度も蹴る。今度は念入りに。
ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ……。
これでいいだろう。僕は土にツバを吐く。これでいいんだ。
僕は歩き出す。今度はどこへ?駅に行こう、と思う。何故、そんなところに?少し、気になるんだ。もしかしたら、僕を動かしている電車が見つかるかもしれない。僕はとにかくあそこには戻りたくなかった。僕は歩く。どこへ?僕は歩く。一体、何がしたい?僕は歩く。僕は少し疲れる。
……駅に着く。そこには誰もいない。僕は電車が来るのを待つことにした。どのようにして待ったほうがいいのだろうか?僕は考える。このままベンチに座ったほうがいいのだろうか?それともそこら辺をぶらぶらするほうがいいのだろうか?よし、後者のほうを選ぼう。僕はベンチから立ち上がる。さて、どこへ向かおうか?僕はレールに沿って歩こうと思った。何故、そう思ったのかは分からない。ただ、歩かなければならない、と思ったからだ。とにかく、僕はレールに沿って歩き出す。




