第5話
それは、ある村に住む一人の母親が、娘に水汲みの仕方を教えようと、片手に水桶を持ち、片手に娘の手を引いて、村近くの川までの野道を歩いていたときのことだった。
「ねえママ。あそこに人がたおれてるよ」
七歳になる娘がそう言って、森の中の一方向を指さす。
母親がそちらへと視線を向けると、確かに、木々の間でうつぶせに倒れている人影が見えた。
「あら大変」
母親は一旦、水桶を地面に置き、娘の手を引いて人影の近くまで歩いてゆく。
近くで見ると、それはどうやら、少女であるようだった。
意識はないようだが、息はある。
歳は十四か、十五ぐらいだろうか。
ショートカットの栗色の髪はボサボサで汚れていて、服装や身なりも旅人のように、あるいはそれ以上と言ってよいほどに薄汚れている。
ただ、少女の姿として何より特異だったのは、その腰に、鞘に収まった剣を佩いていることだった。
兵士たちの使う剣よりは細身に見えるが、いずれにせよ、このような年頃の少女が剣を身に付けている姿を、その母親は見た覚えがなかった。
「…………」
少女が剣を身に付けていることを確認した母親は、険しい顔をする。
その事実は、この倒れた少女が、実は自分や自分の娘に危害を加えるかもしれない、厄介者である可能性が高いことを示唆しているからだ。
このまま放っておけば、いずれ息を引き取るかもしれないが……
「ねぇママ、このおねえちゃん、かわいそうだよ。おうちにつれてってあげよう?」
母親は、娘からそう言われて、ハッとする。
母親は、年若い少女を一人、見殺しにするかどうかを考えていた自分を恥じた。
「……そうね。じゃあ、ママはこのお姉ちゃんをおんぶしていくから、リリはあの水桶を持ってくれる?」
「うん、わかった」
そうして母親は、少女の腰から剣を外して地面に置くと、少女の体をよいしょっと背負った。
娘は道端に置いてあった水桶まで走って、両手で抱えるようによいしょっと持ち上げる。
母親の真似っこだ。
そして母娘は、剣だけをその場に置き去りにして、自宅に帰る道を歩いて行った。
母親は自宅に辿り着くと、自分のベッドに少女を寝かせた。
そして、スープでも作ってやろうと、ベッドと同じ部屋にある台所で火を起こし、水を鍋に入れて、野菜を切って鍋に入れてゆく。
そうして野菜を煮込みながら、一方で自分たちの昼食の準備を同時にしていると、娘がくいくいと服を引っ張ってきた。
「ママ、おねえちゃんおきたよ!」
娘からの指摘を受けて振り返ると、ベッドの上で半身を起こして、呆けた表情をしている少女と目が合った。
母親は少女に語りかける。
「具合はどう? 何であんなところに倒れてたんだか知らないけど、多分ろくに物食べてないんでしょ。今スープ作ってるから、ちょっと待ってなさい」
その母親の言葉を聞くと、少女はその眼差しを鋭くし、睨みつけてきた。
それを見て母親は、腰に両手を当て、呆れたように言う。
「あなたが何者だか知らないけど、どうこうするつもりなら、とっくにやってるわよ。行き倒れを見殺しにするのが、寝覚めが悪いから助けただけ。分かったら大人しくしてなさい」
母親がそう言っても、少女は表情を険しくしたままだ。
そして、少女が口を開く。
「……私のこの言葉を聞いても、そんなことが言える?」
その少女の言葉を聞いて、母親は少し驚いた。
彼女たちが普段使っている言葉と比べて、だいぶ異なった訛りをもっていたたからだ。
「あなた、この辺の子じゃないわね。遠くから来たの?」
その母親の言葉を聞いて、少女は少し不思議そうな顔をするが、すぐに合点がいったというように言葉を返す。
「ああ、そっか。侵略する一方だった側は、これが敵国の言葉だとも気付かないんだ」
それで母親も、さすがに警戒の色を強める。
「……あなた、まさかユーリーン王国の人?」
母親と娘が暮らす村は、カーディル帝国の中でも、事実上の国境近くに位置している。
この村から少し進むと、そこはユーリーン王国という別の国の領土になるらしい。
この母娘は、娘の父親──母親の夫が帝国の兵士だったこともあり、数年前にこの地に移住した。
しかし、その夫も他界し、今は母娘の二人暮らしだ。
なお、ユーリーン王国の方角には行くなと軍から厳命されていたし、実際に行ったこともないので、その隣国にはどんなバケモノが棲みついていてもおかしくないと、妄想を逞しくしていたぐらいだった。
だからまさか、こんな少女がそうだとは、思いも寄らなかったのだ。
「ユーリーン王国ってのは、あなたみたいな女の子が、兵隊やってるわけ?」
母親は自分の娘の元に歩み寄って、しゃがんで抱き寄せ、少女に向かって険のある表情を向けて言う。
すると少女は、ギリと歯を噛みしめ、そして勢いよく立ち上がった。
「あんたたち帝国が──!」
少女は叫ぼうとしたようだった。
しかし、言葉の途中でふらりとして、そのまま床に倒れてしまう。
そして苦しげに、地べたで荒く息を吐く。
「おねえちゃん!」
母親の腕の中で、娘が声を張り上げた。
床に倒れた少女が、視線だけをあげて、小さな娘を見る。
「びょうきのときは、おとなしくしてなきゃ、ダメなんだよ!」
その叱りつけるような愛らしい言葉を聞いて、倒れた少女は目を丸くして、驚いていた。
そして、娘の母親もまた、ため息をつく。
「……リリの言う通りよ。話はまた元気になってから聞くから、今は大人しく寝てなさい」
そう言って母親は、倒れた少女の体を難儀そうに持ち上げて、ベッドの上に寝かせた。
少女は抵抗することもなく、それを受け入れた。