第1話
ユーリーン王国の一端にある、のどかな農村。
もうすぐ収穫期という頃合いの、一面の麦畑は、だいぶ背の高くなった麦穂の海が陽光を照らし、半ば金色の絨毯にも見えるような風景を描いている。
その、風を受けてなびく麦穂の波の隙間に通されたあぜ道を、一人の少女が歩いてくる。
十歳ほどと思われるその少女の、ショートカットの栗色の髪は、今は遠目からも分かるほどに、くしゃくしゃに乱れている。
少女は畑と畑の間にある一軒の木造家屋の前に辿り着くと、無造作にその戸を開いた。
そこは、彼女の自宅である。
「ただいまー」
「おかえり……って、ユニ、あんたまた喧嘩してきたの?」
少女が家に帰ってくると、機織り機で麻布を編んでいた母親が作業を中断し、呆れた様子で少女へと歩み寄った。
まだ二十歳台の後半ぐらいであろう、若い女性だ。
一方、母親からユニと呼ばれた少女の本来可愛らしいはずの顔には、今は青あざができ、口元は切れ、衣服や手足も土まみれになっていた。
なお、「ユニ」というのは母親が呼ぶ愛称で、「ユニティ」というのがこの少女の本名である。
そのユニティは、非難するように言う母親に、抗議の言葉を返す。
「モリスが悪いんだよ! あいつ弱い者イジメばっかするんだもん。ラスはラスで、いつもイジイジしてるし、見てられないよ」
「誰が悪いとか、そんな話はしてない。ユニ、あんた女の子なんだから、そうやって男の子みたいにしてるの、そろそろやめなさい。嫁の貰い手がいなくなるよ」
「別にいいもん。私、お嫁さんになんてなりたくないし」
ユニティは腰に手を当てて叱責する母親をするりとよけ、奥のテーブルへと向かう。
食器台から木のコップを取って、脇の水瓶を持ち上げ、その中に入っている最後の水をコップに注いで、ごくごくと飲み干す。
母親は、その様子に頭を痛めながら、さらに小言を続ける。
「じゃああんたどうやって生きてくつもりなのよ。女はね、どこかいい男のトコに嫁いで、子どもを生んで、家を守るものなの。分かったらあんたも女の子らしくする!」
「……そんなのおかしいよ。私は私だもん。女とか男とか、関係ない」
コップを手で弄びながら、ユニティは口を尖らせる。
母親はやはり、しかめ面だ。
「まったく、誰に似たんだか……ほら、服の腋のところ、破けてるじゃない。それあんたが自分で直しなさいよ」
母親にそう言われて、ユニティは自分の左腕を持ち上げてみる。
すると確かに、その衣服の腋の部分が破れて、素肌が露出していた。
「ほんとだ。でも、やり方分かんない。お母さんやってよ」
「ダメ。女の子なんだから、そのぐらい自分でできるようになりなさい。教えてあげるから」
「えー、めんどくさいよー。何だよ、女の子、女の子って」
そうぼやきながらも、ユニティは服を脱ぎ、その縫い方を母親から教わる。
しかし不承不承に教わりながらも、決して不器用ではないユニティは、母親から教わったその技を、簡単に修得してしまう。
「えへへ-、できた。これでどう?」
「上出来。あんたやればできるんだから、もっとちゃんと女らしく──」
「聞き飽きた。水汲み行ってくる」
ユニティは修繕した服を着直して、再び家の戸をくぐって、外に出て行った。
母親はその様子を、困り顔で見送る。
ユニティの日常は、そう、おおよそそんな感じだった。
平和な村での、平凡な生活。
何事もなければユニティも、彼女の母親の言うように、いずれは嫁いで、子を産み、家を守る母親になったのかもしれない。
だが、現実はそうはならなかった。
幼い彼女の日常に、悲劇が訪れたからだ。
その日のそのときは、ユニティが村外れの川まで、水を汲みに行っていたときだった。
夕刻になりかかり、空と雲がほのかに赤らんできたその時間に、それは起こった。
「……悲鳴、かな? ……何だろ?」
川の清流から、専用の木桶に水を汲んでいるユニティの耳に、女性の叫び声のような響きが、かすかに聞こえてきた気がした。
それは村の入り口の方からで、ユニティが今いる場所からは、ちょうど村の反対側にあたる。
ユニティが住む村は、人口百人程度の小さな村だが、一面の小麦畑の間に家屋がぽつりぽつりと点在するような地形になっている。
そのため村の端から端まではかなりの距離があり、ユニティが今いる村はずれの川がある場所から、村の入り口付近を視認することは、比較的遠目の利くユニティにとっても、到底不可能な芸当だった。
ユニティは最初、その悲鳴のような声を、不思議に思っただけだった。
だから水がいっぱいに入った水桶を運びながら、普段通りにえっちらおっちらと、自宅まで歩いて帰った。
だけどその帰路の途中で、ようやくそれが異常事態であることに気付いた。
村の中央付近にあるユニティの家に近付くにつれて、徐々に多くの悲鳴や断末魔の叫び声、それに金属を打ち合わせたようなカンカンという音が、はっきりと聞こえてくるようになった。
そこに至って初めて、小麦畑の間のあぜ道を歩くユニティは、その途中で水桶を地面に置き、不安に駆られて自宅へと走った。
「お父さん、お母さん! 何かあったの?」
ようやく自宅に辿り着いたユニティが、勢い込んで自宅の戸を開くと、そこには険しい表情の父親と母親の姿があった。
母親は家に飛び込んできたユニティの姿を認めると、駆け寄ってきて少女を抱きとめる。
「ユニティ、良かった……! 今すぐ逃げるわよ、外へ出て」
「えっ……逃げるって、何があったの?」
「詳しくは分からないが……トーマスは、隣国──カーディル帝国の兵士が攻めて来たと言っていた」
そう言うユニティの父親は、背丈ほどの長さの槍を片手に持ち、もう一方の手には、たくさんの荷物が入っているのであろう麻の大袋を握り、それを背に負っていた。
普段は農夫である父親が、武器を手にしている姿は、ユニティの目には不可思議に映った。
「お父さん……敵の兵士と、戦うの? ……戦えるの?」
「いざというときの備えだ。ともかく逃げるぞ、ユニティ」
「……うん」
さすがのユニティも、うなずくしかない。
男勝りのユニティとは言っても、それは子どもの間での話だ。
大人相手に武器を持って戦うことなど、ユニティは想像したこともない。
ユニティは、父親の後を歩く母親に手を引かれ、家の外に出る。
置いてきた水桶をどうしよう、などとふと思うが、そんなものを気にかけている場合じゃなさそうだと、その考えを頭から振り捨てる。
だが現実の事態は、そのユニティの平和な思考が、まだ数段ずれていたことを物語っていた。
「あ、あなた……」
「くそっ……!」
ユニティたち三人が家を出ると、家から続く右手と左手のあぜ道のうち、右手側の道から、武装した男が二人、歩み寄って来ていた。
男たちはそれぞれ、コイフ付きの鎖かたびらを身に付け、右手には長剣、左手には木製の円形盾を装備している。
そしてその盾には、隣国、カーディル帝国の所属を示す黒鳥の紋章が刻まれていた。
「おっ、なぁんだ、いい女いるじゃねぇか」
武装した男の一人が、ユーリーン王国民のそれとは少し訛りの違う大陸公用語で、下卑た言葉を喋った。
それに応じて、隣の男も、同様の訛りで言葉を発する。
「ホントだ。きひひ、若妻ってなぁ、そそるねぇ」
「待て待て。お前、ガキもイケる口だったろ。あっちやるから、熟れてる方俺に寄越せよ」
「ちっ、しょうがねぇな。あとでそっちも味見させろよ」
「オーライ。正気保ったまま渡せるかは、保証できねぇけどな」
男たちの勝手な会話の意味は、ユニティにはほとんど理解できなかった。
一方で、ユニティの父親は、妻と娘を守るように、彼らの前へと出る。
「ユフィア……ユニティを連れて逃げろ」
「で、でもあなた……!」
「早くしろ!」
父親は叫ぶが、母親は動けない。
母親はただただユニティを抱き締め、男たちの様子を見守るばかりだ。
「お、なんだ農夫。やる気か?」
槍を構えて立ちふさがるユニティの父親に向かって、帝国兵の一人が無造作に近付いてくる。
妻と娘を守らんとする父親は、気圧されて後ずさりしそうになるも、懸命にその場に留まり続ける。
そして、やがてその距離は、ユニティの父親が持っている槍の間合いにまで近付いた。
「く、くそっ……うおおおおっ!」
ユニティの父親は、慣れない武器を扱い、気迫でその槍を突き出す。
だがその一撃は、帝国兵の盾によってあっさりと弾かれ、横手へと逸らされた。
「粋がってんじゃねぇよ、素人!」
帝国兵はそのまま一歩を踏み込み、槍を突いた姿勢で体の泳いだユニティの父親の胸に、長剣を突き立てた。
その刃先が父親の背中へと抜け、衣服を突き破った姿が、ユニティの視界に映る。
深紅に染まった冷たい鉄の刃先が、ユニティの目に、しっかりと焼きついた。
「──い、いやああああああっ!」
体から剣を引き抜かれ崩れ落ちた夫を見て、その妻が悲鳴を上げて、ユニティの元から離れてゆく。
愛する男の元に駆け寄った女は、しかし帝国兵の一人に掴みかかられ、がむしゃらに叫び声を上げ抵抗する。
そしてそれと並行して、もう一人の帝国兵が下卑た笑みを浮かべながら、ユニティの元に歩み寄ってきた。
「あ……あっ……や、やだ……」
ユニティは、腰を抜かしたまま動けない。
男は剣を鞘に納めると、毛むくじゃらの大きな手でもって、恐怖で動けないユニティの腕を無造作に掴み──
それからのことは、ユニティの記憶には、あまりきちんと残っていない。
ユニティが自我を取り戻したときには、彼女は裸に剥かれ、自宅のベッドの上にいて──
──そこでユニティは、帝国兵の男の首筋を、男自身の腰から奪い取った剣で掻き切っていた。
「なっ……あっ……」
男の首から大量の血が噴き出し、男の下にいるユニティの顔に容赦なく降りかかる。
しかし、その生暖かいものを顔に浴びながらも、ユニティは冷静に、男の死体の下から抜け出した。
「…………」
ユニティは破り裂かれてベッドの脇に捨てられた自分の服を、破れたままの姿で着直しながら、これからどうするかを思案する。
心は、不思議と冷めていて、次の最善手を考えるのには最適な状態だった。
ユニティは、母親を助けなければと思った。
あれから数分経ったのか、数十分もたったのか見当がつかないが、ただそうしなければならないと、少女は考えた。
ユニティは、何か武器が必要だと思って、ベッド脇に放置されたままの帝国兵の剣を手に取る。
改めて持ってみると、その長剣は重く、ユニティが片手で振り回すには手に余る代物だった。
両手で持とうとしてみるが、その持ち手は片手持ち用に作られていて、ユニティの小さな手でも、しっくりとは来ない。
しかし片手で振るうよりはマシだと思って、両手で扱うことを決める。
ユニティは剣を手に、開け放たれた家の扉の脇へと忍び寄る。
すっかり夕焼けに染まった外の色が、ユニティには、血の色のように思えた。
外からずっと聞こえていた母親の声は、少し前から聞こえなくなっていた。
その代わりに、戦いの音、男たちの上げる雄叫びの声が多くなり、それもわずか前に小さくなったように思う。
だが、外が実際にどういう状況なのかは、ユニティには分からない。
しかしそのとき、家の外、すぐ近くから、とある男の声が聞こえてきた。
「帝国兵はすべて掃討したか? 村人の生き残りは」
そのよく通る男の言葉は、ユーリーン王国訛りの、しかし、ユニティが知らない声のものだった。
「ええ。外にいる帝国兵は、すべて制圧しました。現在、二名単位で兵を散開させ、家屋の中を捜索中でさ」
「そうか」
男の声に、同じく王国訛りの別の声が応じる。
ユニティはその言葉を聞いて、その意味するところを理解して、剣を捨てて外に飛び出した。
夕焼け空の下、小麦畑の間のあぜ道には、まず二人の男がいた。
男たちは、鎖かたびらの上にユーリーン王国の紋章である白狼が描かれた外衣を身に付け、剣と盾とで武装していた。
また彼らの足元には、ユニティたちを襲った帝国兵のうちの一人が、命を失って倒れていた。
それが命を失っているというのが分かるのは、手足と胸にそれぞれ一本ずつ矢が刺さり、さらには頭部がかち割られて脳みそが飛び散り、目玉が飛び出していたからだ。
そして、さらに二つの人影が、ユニティの視界に入る。
一つは、帝国兵に胸を貫かれて倒れた、父親の死体。
もう一つは、それに寄り添うようにして倒れた女性──ボロボロに破かれた衣服を纏い、ユニティの父親が持っていた槍で自らの喉を貫いて命を絶ったのであろう、母親の姿だった……。