第3話 自覚と僕
最近、学校が楽しい。
3年1組の32人は、みんなそう思っているんじゃないかと思う。
「っと、今日は45分授業ですね。そんで、1時間目に歯科検診があるからみんな遅れないようにしましょう」
秋名先生の、いつまでたっても少しも慣れる様子がない朝の連絡ももう慣れた。
その後の、大事なところだけはしゃべる担任の倉沢先生の話も。
みんながとても生き生きしてるのは、秋名先生がいつも楽しそうにしゃべるからだと思う。
あ、朝の会の連絡は緊張しててへたくそだけど。
秋名先生は給食を食べるのが遅い。
20分あれば給食ぐらい食べれるだろうに、いつも時計を気にしながら焦って食べて、たまにむせたりしてる。
しゃべりながら食べればいいのに、しゃべるときは絶対手を止めちゃうから、さらに遅くなってる。
秋名先生の授業はとても面白い。
朝の会はたどたどしいくせに、授業はなぜかリラックスしてる。…ように見える。
でも時々「しまった!」みたいな顔をするから、多分何もかもうまくいってるわけではないのだろう。
誰かが先生の質問の答えをつぶやくと、ものっすごくうれしそうな顔をする。
僕も無意識のうちに答えをつぶやいたとき、それが実はとても大事な部分だったらしくて、
聞こえてるくせに何回も「え?」と聞き返されて、みんなが笑う中大きな声で発表させられてしまった。
…あのときの先生の、いたずらをやり遂げた!みたいな笑顔は絶対忘れない。
秋名先生が実習に来てから3週間。こんなに生徒と仲良くなった実習生はこれまでにいただろうか。
授業もすごく面白いし。正直、谷中先生の授業より断然わかりやすい。
これがいつかは、あの谷中先生の授業に戻ってしまうと思うとやりきれない思いでいっぱいになる。
国語が谷中先生の授業に戻るとき。
…それは、秋名先生の実習が終わるときだ。
あと、1週間、か。
そんなある日、家に帰ってご飯を食べてから、僕は忘れ物をしたことに気付いた。
理科のワーク。明日提出で、理科の渡辺先生は提出物にとても厳しい。
やばいぞ、これ。
時間は6時45分。まだ学校あいてるかな?
僕は私服のまま自転車に乗って、真っ暗になってしまった道の上、必死にペダルをこいだ。
10分ぐらい走ると、学校が見えてきた。
…あれ?1組の教室、電気がついてる。
誰かいんのかな?こんな時間に。倉沢先生かな?
意味もなく足音を忍ばせて、3階の教室に向かう。
僕がそこで見たものは。
うつむいて、教科書の上にペンを走らせる秋名先生。
時折、鼻をすする音。
黒板に連なるのは、僕らがまだやっていないところの授業をまとめた白い文字。
僕は声をかけることが出来なかった。
先生はまったく僕に気付く様子はなく、また顔を上げて、手に持った紙を見ながら黒板に字を書き出す。
今まで見たことのないくらい、真剣な表情。
黒板がいっぱいになったころ、大きなため息をついて。
「えっ!?」
…入り口で立ち尽くしていた僕に気付いた。
「あっ、あの、俺、忘れ物しちゃって…」
意味もなく僕は焦り、あわてて教室に入る。端っこの机にガンッと足をぶつける。
「いでっ」
「今とりに来たの?ずっとそこいたの?ぜんぜん気付かなかった…」
ものっすごくびっくりした顔をして、秋名先生は僕を見た。
目が、赤い…
…先生?
…いや、聞いちゃダメだ。
「すんません、すぐ出るんで」
「ううん、謝ることないよ。気つけて帰ってね」
…でも。
「あ、先生」
「ん?」
僕は精一杯笑って、ずっと言いたかったし、みんなも思ってることを言った。
「俺ね、いつも先生の授業めっちゃおもしろいと思って聞いてるんですよ」
………
…あれ?
僕、
何か変なコト言った?
「あの、せんせ…」
「……あれっ?」
茶色い目からぽろぽろっと、涙がこぼれる。
先生はそんな自分にびっくりしたみたいだった。
「ごめんごめん、なんでもない」
先生はすぐに涙をふいて、にっこり笑った。
目が赤いこと以外は、いつもの秋名先生だ。
「うれしいこと言ってくれるねー、菅谷くんってば」
「や、みんなそう思ってますよ。谷中先生の授業より百億倍いいっすよ」
「ほんとに!?うれしい、ありがとう!」
よかった。
いつもの秋名先生だ。目が赤いこと以外は。
…目が赤いのには、気づいてないことにしよう。
「ところで何忘れたの?」
「あー、理科のワークです。明日出すんすよ」
「明日出すのに忘れちゃったんだ」
「はい」
「おバカだなぁ」
「ほんっと、こういう時まじテンション下がりますよね」
「わかるわかる。私だったら嫌になっちゃって取りになんか来ないよ。菅谷くんえらいね」
「いや、理科じゃなかったら俺だって取りに来ないですよ」
「提出厳しいんだ?理科」
「もー、谷中先生レベルっすよ」
「あはは」
「そーだ、先生は谷中先生どう思います?」
「なに、どうって?」
「ものっすごい嫌われてるじゃないですか、生徒に」
「でも、悪い人じゃないでしょ?」
「悪い人ですよ!悪人ですよ」
「もう、そんなことないってば」
「でもマジありえないんですよ?なんかこないだとか…」
谷中先生の愚痴が止まらなくなった僕と、それを制す秋名先生のやりとり。
…ほかにも、誰と誰が付き合ってるとか。クラスの中の人間関係。拓や、アツのバカないたずら。
僕たちの話は続いた。話してるうちに、秋名先生の目からは赤みが引いてきて。
いつもと微妙に違う秋名先生の笑顔は、いつもと全然変わらない秋名先生の笑顔に戻ってきて。
僕は、何よりもそれが、本当に本当にうれしかった。
くだらない話をしてたら、いつの間にか時間がすぎてて。
僕は8時半を過ぎてやっと、自分が帰らないといけないことに気付いた。
「げ、もう8時半!?」
「あっ、ごめん!話に夢中になってた」先生もあわてて黒板を消し始める。
僕はそれを手伝ってきれいにしてから、さよならを言って学校を出た。
僕は意味もなく、どんどんペダルをこいでスピードを出す。
自転車のカゴに放り込まれた理科のワークがばさばさ音を立てる。
夜の風が、心地いい。
僕はきっと、ずっと忘れないんじゃないだろうか。
秋名先生の、真剣な横顔。
秋名先生の、思わずこぼした涙。
秋名先生の、笑顔の中の潤んだ赤い目。
「話に夢中になってた」
秋名先生の、なにげなく紡いだ言葉。
親友ふたりの、バカな言葉がよみがえる。
「好きなんだろ?せんせーのことが」
…拓とアツが言ったとおりになってしまった。
やっぱり僕は、ものっすごいバカだ。