01:異世界へ
人気の少ない細道。しん、と静まったその道は元々街灯も少なく、夜に一人で歩くには些か不安になるような道なのだが、今日はその街灯さえもチカチカと点滅を繰り返し、不安を煽っていた。
そんな不安な夜道を、涼香はとぼとぼと覚束無い足取りで、重々しく歩いていた。
「はぁ」
暗いこの道も、毎日の様に使う内にすっかり慣れ、別段この道に怯えている訳ではなかった。涼香が本日何度目になるか判らない溜息を吐いたのは他でもない、彼女の仕事に関して溜まりに溜まった不満や不安、憤り故だ。
「仕事……辞めたい」
小学生の頃からずっと夢見ていた職業――教師に折角なれたと言うのに、最近ではちっとも嬉しいと思えない。
それもそのはず、思い描いた理想とは裏腹に、実際には何でも自分の思い通りに行くと思い込んでいる、甘やかされ続けた性根の腐った様な生徒たち、そんな風に育て上げて来た、子供を何も出来ない赤ん坊か何かと勘違いしているのではないかと思える程の過保護ぶりをこれでもかと言う位に発揮し続ける親たちばかり……。
モンスターペアレントの存在は聞いていたが、ココまで酷いとは……と、予想の遥か上を行くモンスターたちにすっかり参ってしまっていた。
最近では、教師を目指した頃の情熱など、すっかり色褪せてしまい、この仕事を続けてく自信がまったく無い。
それでも、未だに辞めることが出来ないのは何故だろうか?涼香は『辛い』『辞めたい』と思ってずっと辞表を鞄に入れているけれど、それを実際に出してしまった事はまだ、無い。
もう、すっかり色褪せてしまった想いに縋っているのだろうか?とも、考えたが答えは見つからず、ただただ日常が過ぎて行くばかりだった。
「明日こそ、辞めよう」
これまで、何度も思ったけれど、初めて口にしたその言葉に、自身でも不思議な程、気持ちはすっきりとしていた。明日はきっと辞表を出せる、そう思えた。そう、思ってしまえば涼香の気持ちは幾分晴れ、不安を増徴するようなその細道のチラつく街灯の灯りや遠くに聞こえるズドン!言う何かの爆発音らしき音さえも、祝福の拍手や歓声にさえ感じられるのだから『気持ち』と言うのはいい加減だ。
涼香は改めて一呼吸すると、今度はしっかりとした足取りで家を目指し歩き出した。
軽やかに歩き出し、10分程歩いた頃だろうか。ふと違和感を覚え立ち止まり、辺りを見回すが、何時もと何一つ変わらない景色を確認すると、首を小さく傾げるも、すぐにまた歩き始めた。
また暫く歩くと、違和感は確信へと変わり、再び涼香は歩みを止め、辺りを見回したが、景色は何時もと何一つ――先ほどの景色からさえも変わっていなかった。
「ずっと、同じ所歩いてる?」
歩き出して、かれこれ数十分余り。普段ならばとうにアパートの自室に辿り着いていてもおかしくない程度には時間が経過していた。どんなに歩くのが遅くとも、亀ではない。歩いているのだから、ここまで歩いて周囲の景色に変化が無いというのもおかしな話だ。
――キュィイイイイイ……
「?」
耳鳴りとも、鈴の音ともつかない『音』。正体は判らないが、何故か『鳴声』なのだと思った。
「ねぇ、どうしたの?」
鳴声の主へ、なるべく優しく問いかける。
――キュィイイ……
先ほどよりも幽かだけれど、問い掛けに応える様なその鳴声は、どこか寂しそうに聞こえる。
「迷子なの?」
寂しそうに聴こえる鳴声に、どこか安心したのかもしれない。言葉が分かるのならば、突然に襲い掛かってくると言う事は無いだろうと、考えたのかもしれない。
――ズドォオオオオオオン!!
――あ、死んだな。
突然の爆風。この辺りは住宅地で爆発するような物は無かった筈だが、何かが爆発したのでなければこの爆音はありえない。先ほど、テンションが上がっていた事もあって華麗にスルーしていた爆音を思い返した涼香は、冷静に自分の死を受け入れるほか無かった。
「無理無理!!まだやりたい事とかいっぱいあるし!!」
否、自分の死を受け入れきる事はできず、爆風の強さに耐え切れず目を硬く瞑ったままで、ひたすらに祈った。――まだ死にませんように、と。
爆風は暫く収まらず、目を開ける事も出来ずにじっと待つしかなかったが、『待っていられる』と言う事は、爆発自体には巻き込まれていないと思っていいのかもしれない、と言う事に思い至る。思い至ってしまえば、多少の不安はあるものの先ほどまでの不安と比べれば取るに足らない事の様に思えた。
――大丈夫。
ひとまず、自分に言い聞かせる。すると身体を何かが囲って居る様な感覚に襲われた。ソレは所々が岩の様にごつごつとしていて、苔の様な感触もある。しかし、硬いのは触れている表面だけの様で内側からの熱や柔らかさが伝わってくる。
「さっきの……?」
鳴声の主なのかもしれない。そう思ってそのごつごつとしたモノをそっと撫でてやると、ソレは嬉しそうに小さくキュィイと鳴いた。その鳴声を聴いていたら、涼香はふと、以前に行った日光の鳴き龍を思い出した。
――あの音と少し似てる。
鈴の音に似たあの音とこの鳴声は確かに似ていた。とは言え、龍は架空の生物なのだから、これが龍である筈ないが、こんな感触、こんな鳴声の生き物が居るのだろうか?この風が収まる頃には、自身の両目で確認できるのだから、と時が経つのを待った。
「やべっ」
少し、風が落ち着き始めた頃、少し焦った様な青年の声が聞こえた。先ほどまで青年所か、ひとっこ一人見当たらなかったのにも関わらず、突然聞こえたこの青年の声に一抹の不安が過ぎる。
――爆発の犯人?
爆発音は二度聞こえた。事故と言うよりも、誰かが意図して行ったことだと考えた方が幾分か合点がいく様な気がして『彼』を犯人だと考えた。もし、本当に犯人だとすれば、涼香の存在に気付けば口封じ等の理由で恐らく殺される。そう考えて、自分を覆って居るソレにしがみ付いて息を殺した。先ほどの『やべっ』と言う言葉が涼香を見つけて発せられた声ではない事を祈りながら、少しずつ双眸を開く。
「大丈夫か!?」
心配そうな声音で彼は涼香を囲っていたソレを優しく撫でながら問いかけている様だった。そんな様子を思うと、悪い人間ではないのかもしれない、などと都合の良い事を考えそうになるが、易々と油断してしまうわけにはいかない。折角助かった命、ここで失敗して結局死んでしまうのでは辛すぎる。涼香は彼から見つからない様になるべくそのゴツゴツに隠れ――ようとしたが、その正体への好奇心が先行してソレを見た。
「何これ!?」
思わず、声を上げてしまった事に慌てて口を自らの両手で口を覆うが、時既に遅し。驚いた顔をして此方を燃え盛る炎の様な色彩の髪の青年が、涼香を守るように囲う、ごつごつとした岩のような身体を持つ、巨大な蜥蜴の様な生物を撫でていた手を止めて見つめていた。
――まずい。
この状況はまずい。相手が何者なのか、何一つ分からないまま身を潜めていた自分が見つかる、と言うのはどう考えてみてもよろしくない。
「怪我、無ぇか?」
驚いていた青年が、涼香にも分かっていないこの状況を把握したのか、落ち着きをすぐに取り戻し、心配そうに此方を伺って言った。この言葉に悪意は見られない。悪い人間では無い様だが、涼香自身はまだまだ理解が追いつかず、こくこくと頷くのが精一杯だった。
涼香が頷いたのを確認すると、彼はほぅと胸を撫で下ろす様に安堵の息を吐き、何事かを思案する様に腕を組んで止まってしまった。
――私、どうしたらいいんだろう?
声を掛けるべきなのか、邪魔をしない方が良いのかも分からず暫し彼の様子を伺うが、すぐに手持ち無沙汰になり周囲を見回して初めて気が付いた事がある。
――此処は何処だろう?
涼香は決して方向音痴と言う分けではなかった。それでも、この場所が一体何処なのか見当も付かなかった。此処は住宅街には到底見えない、と言うよりも日本には見えない。広い空と、岩山や草原。周囲には、いかにも童話に出て来そうな深い森が見える。当然、電線も見当たらない。先ほどまで居た、家の近所ではない其処は、一体どれだけ離れた場所に来てしまったのかと不安を募らせるには十分だ。
――あの爆風で飛ばされた?
だとすると、この竜らしき生物は涼香を随分と気を付けて守っていてくれた事になる。『吹き飛ばされた』と言う感覚は一切無く、その場に留まっているものとばかり思っていたのだから。
「ありがとう」
そう言って、竜の首らしき辺りをそっと撫でてやると竜はキュィと気持ち良さそうに鳴いた。大きくて見た目も厳つく、普段だったら恐ろしくてこんな事は出来ないだろうが、不思議とこの竜は怖くなかった。
「ふぅ」
考え込んでいた青年は、小さく溜息を吐くと涼香の方を見てぽりぽりと頭を掻きながらどう言ったものか、と未だ困っている様だったが、ややあって、覚悟を決めたのか神妙な面持ちで言葉を切り出した。
「なぁ、信じらんねぇと思うけど」
既に信じられない事ばかりが起きているのにも関わらず、青年はまだ信じられない様な事実を伝えるつもりなのか、と涼香は身を強張らせ言葉の続きを待った。
「なんて説明すりゃ良いか分かん無ぇけど」
視線を彷徨わせながらも紡がれていく言葉に不安ばかりが募る。
――実は『此処は死後の世界です』とかじゃないと良いんだけど……。
『実は死んでいました。』と言うオチは勘弁願いたい。そう願いながら話を聞くが、覚悟を決めたであろう青年自身、本当に説明に困っている様で中々先に進まない。先ほどまで考え込んでいたのは説明内容の事ではなかったのかと問い詰めたい。などと考えていても青年の言葉はまだはっきりしないが、彼自身もまどろっこしいのは性に合わないのか、自身に少し苛立って居る様でわしゃわ
しゃと激しく髪を掻き毟っている。
そうして、ひとしきり自分への苛立ちを自身へぶつけ終わったのか、青年はまた落ち着きを取り戻して涼香の方へ向き直った。
「あー……多分ここ、あんたにとって異世界って奴なんだ」