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第1章 境界線上のグラフ

朝の灰色が城下を包むとき、椎名杏はいつもの癖で窓際の木の机に手を置いた。机の上には羊皮紙の束。だが今日の羊皮紙はただの地図ではない。点と線が、彼女の頭の中で無数のノードとエッジに変換されていく。


「伯爵令嬢、問題が――」


執務室に飛び込んできた侍従の声で現実に引き戻される。侍従の顔は普段より硬く、息が荒い。


「南の三つの村への補給路が断たれました。橋が崩落、夜の獣が増え、運搬隊は被害を受け……残糧は三日ももちません」


『三日』という言葉は、領地経営の死亡宣告に等しい。杏は深呼吸を一つだけして、机の羊皮紙をひっくり返した。そこにあるのは、村と道を結んだ粗い図。だが彼女の目には、それが即座に重み付きグラフに見えた。各辺に「時間」「危険度」「運搬量」の重みが付いている。


「分かりました。何台の荷車が、どのルートで、何時に出るかを再計算します。全ての制約を入力して、最短で最大供給量を確保します」


侍従がぽかんとする。伯爵家の令嬢が、そんな言葉遣いをするのは珍しい。杏自身も、胸の奥で小さな興奮を感じていた。大学で学んだ夜更けの数式が、今、誰かの命に直結する。


彼女は羊皮紙に小さな円を描き、そこに鉛筆で符号のように文字を刻む。『出発点:城(S)』『終点:村A,B,C』――そして、辺ごとに短いルーンの線を引いた。杏は口の中で呟く。ダイクストラ、貪欲、動的計画。言葉は彼女の中で呪文めいて震える。


魔法とは、定義だ。世界の状態、制約、評価関数をきちんと定義すれば、答えは出る。杏はそう信じていた。


最初に彼女が投げたのは「最短経路」の光。羊皮紙から薄い光の糸が伸び、城と村を結ぶ全ての道が光り出す。光は時間と危険度の重みを可視化した。もっとも速い道は山越えの古道だが、夜行性の『迷道犬』が巣食う。別の道は回り道で時間はかかるが安全だ――。


「ここで貪欲法を使うと、最初の一手は速い道を選ぶでしょう。でも総合では失敗する可能性が高い。動的計画法で各村の需要と荷車の積載制約を全探索する」


彼女が指を滑らせると、光の線は細かく分割され、各区間ごとの最適出発時間、荷車台数、護衛数まで算出された。数字は羊皮紙の上で踊るが、彼女の喋り方は淡々としている。


「一列で送ると狙われる。時間差で小分けにして、経路を分散する。回復が早い道は帰路を活用して次の輸送を行う。護衛は人数に応じて配置。最重要は、村ごとの保管容量を超えないこと――」


執務室の空気が張りつめる。侍従も領の顧問も、彼女が示す指示を即座に理解はできないが、その論理の筋の良さには頷かざるを得なかった。実行に移す人間が必要だ。杏は小さく笑う。


「私が先頭で行きます。証明があるなら、人は動かせる」


合図一つで、城は忙しく動き出した。護衛隊が詰め、荷馬車が締められ、村から戻った負傷者は治療に回される。杏は地図の前に立ち、予定通りの出発時間をつぶやくと、光の糸が一瞬で収束した。これは彼女にとっては証明の提示だった。誰が見ても論理は通っている。あとは実行だけだ。


道中、夜霧が薄く立ち込める。山道の入口で、護衛の一人が震えた声で言う。


「領主様、向こうに影が……迷道犬が二十ほど!」


だが杏の心は平静だった。彼女は腰の小さな袋から、丸い金属片を取り出す。その表面には小さな格子状の刻印。コンパクトなルーンマシン(彼女が自分で作った“アルゴリズムの結晶”)だ。起動すると、周囲の空気が微かに振動する。杏の頭の中に、先ほど書いた動的計画の結果が流れ込む感覚が戻ってきた。


「Aルートは北壁を回避して二手に分ける。Bルートは時間差で同時進行。私と護衛の一隊で山間を誘導して、残りの荷車は回廊を通して村Bへ。注意深く、だが脚は止めない」


命令は的確に伝わり、隊列は動く。迷道犬たちは不規則に襲い掛かるが、杏の計算どおり、分散した隊列が犬の注意を散らし、犠牲を最小限に抑えられた。荷車は一台も失われなかった。村に食糧を運び込むと、村人たちの目には涙が浮かんだ。


「あなたが…令嬢様?」


「あんまり堅苦しく呼ばないでください。椎名 杏でいいです」


子どものように笑う彼女の顔は、城の書斎で見せる論理的な表情とは違った柔らかさを持っていた。村長は拝むように感謝を述べるが、杏はただ首を振った。


「喜ばしいことは喜ぶ。でも、これで完了ではない。橋の復旧計画、恒久的な備蓄システムの設計、次の冬に備えた交易ルートの再評価――やることは山ほどあります。数式はまだ終わっていません」


その言葉に、誰もが肩をすくめる。だが村人の一人が小さく呻いた。


「あなたは…証明を書ける人なのかもしれん。証明があれば、他の領も動く。人は『どうしてそれが正しいか』を知りたいんだ」


杏は、少しだけ窓の外に視線をやった。遠く、王都方面の空がわずかに赤かった。彼女の胸に、知らぬうちに小さな予感が灯る。


――証明が届けば、良い世界が拡がるかもしれない。だが、証明が注目されれば、対立も生まれる。


その夜、杏は羊皮紙に小さなメモを書き残した。

『最適解は有限だが、最良の選択は無限。次は交易ルートの整数最適化。王都と交渉する必要がある。』とだけ。


数式の余韻がまだ指先に残る。誰かが遠くで彼女を見ている気配――それは証明を求める者たちの視線か、あるいは証明を恐れる者たちのものかもしれない。


だが椎名杏は、窓の外の星を一つ見上げ、静かに笑った。


「さあ、最適化の時間だわ」

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