【番外編・IF話】灯のともる場所
レオがソフィアの引き留めに成功した場合の「もしもの話」です。
現実ではソフィアはテオドールと共に旅立ちます。
「就職祝い、してくれない?」
朝、いつもより早く焼き上がったパンを袋に詰めながら、僕はソフィアに言った。
「今日から正式に教師になるんだ。だから、ささやかでも、何か特別なことしたいなって」
ソフィアは少しだけ驚いた顔をして、それから静かに微笑んだ。
「もちろん。じゃあ、今日はスープを丁寧に作るわね。」
その笑顔に、少しだけほっとした。
……気づいていた。
昨日、背嚢の中に畳まれたマント。旅支度のような小さな包み。
彼女はまた、歩き出そうとしていた。
誰かを救うために。
どこかの知らない町で、傷ついた人に手を差し伸べるために。
だけど僕は、それを今は見なかったことにした。
旅立ちのきっかけを、僕がくじいた。
それでも、ずるいとは思わなかった。
たった一度、ほんの少しだけ、彼女を隣に留めておきたかった。
*
夜になって、ふたりで夕食を囲んだ。
スープはいつもより少し濃く、パンは形がふぞろいだったけれど、焼きたてで美味しかった。
「お祝いって言っても、これしかできなかったわ。」
「これがいいんだよ。僕にとっては、これが一番特別なんだ。」
そう言ったら、ソフィアは少し照れたように笑った。
……その笑顔を、ずっと見ていたいと思った。
*
この町で過ごす日々は、変わらず穏やかだ。
朝は早く起きて、教室の机を並べる。
昼は子どもたちと字の練習をして、夕方にはソフィアの手伝いをする。
「レオ、今日の子どもたちはどうだった?」
「字が反対になっちゃう子がいてね。でも、少しずつ上手くなってる。」
そう話す僕を、ソフィアは「よく頑張ったわね」と言って紅茶を差し出してくれる。
その言葉が、どんな賞状よりも嬉しかった。
*
ときどき思う。
あの日、僕が引き留めなかったら、彼女はどこへ行ったんだろうと。
今でも、ときどき窓の外を見ている横顔に、遠い風の音を聴いているような気配を感じることがある。
でも、いいんだ。
この人が今、ここにいてくれるだけで。
言いたいことはたくさんある。
そのうちのひとつは、たぶん「好きです」って言葉だと思う。
でも、まだ言わない。
今の距離が壊れてしまう気がして、
言葉を飲み込んだまま、僕は今日も笑う。
旅に出ない未来。
それは、ふたりの間に生まれたもうひとつの選択。
この静かな日常が、そっと続いていくことを祈りながら、
僕は、明日も隣の席に座る。